食べることについて、少し。
先日、「フード左翼とフード右翼」という本を読んで、人々の食の動向をこのようにレッテル貼りして全体の動向を探ろうとする、思考方法そのものに違和感を覚えました。ですが、確かに食にまつわる価値観の差は、大きくなってきているとも言えますね。
future world imaginationの「地域社会圏」内の構成で紹介した、「地域社会圏」に描かれている共有スペースとしてのキッチンというスタイルは、現代でもすでに似たような形として、コミュニティキッチンなど各地で食を通じた地域の活性化が行われていたりしています。だけどもしかしたらそういう場所でも、「フード左翼とフード右翼」という本が描き出すような食への関心への温度も、ひとつの問題になるのかもしれないなぁ、とふと思いました。
ですがそれが問題になる場合には、いずれの立場でも良いのですが、その個人にとって食への信頼性が極めて限定されているということに由来すると思えます。食事をデータや化学記号で考える人、流通しているものを好みだけで食べる人、思想から食べる食材を選んで料理をする人、地産地消をモットーにする人などなど、それぞれが抱く食への信頼性=「食事とはこのようなものだ」という観念が固定していると、他者とそれ以外のものを共有することは難しいだろうなぁと思えるからです。
それは結局どんなものでも言えるもで、人の未熟な態度ゆえの問題ですから、あえて「食」の場面にこだわる必要はありません。
食事はその時その場面で「感謝して美味しくいただく」ことが基本と思っています。
食材を選べる場面では選びますが、選べないときにはそのものを感謝して食べる。
放射能問題は深刻だと思っていますが、体の解毒作用を促す食事や生活を行うことと、「感謝して食べる」という食への基本態度を失わなければ、僕は心配しすぎないで東京で暮らしています。(もちろんリスクのあることは承知しています)
遺伝子操作の食材については、僕は単なる安全性だけの問題ではないと思っています。それは食材というものを「いのち」として捉えるのか、「道具」として捉えるのかの違いであるほうが大き位からです。いくら「安全」という科学的データを提出して、一般的な数値や平均値を出されても正直どうでもいい。遺伝子操作の食材は、まさに食材が「道具」として捉えられていることによって生み出された素材ではないでしょうか。それを口にするのが嫌だ、というだけです。(もちろんすでにこの社会では薄く広く浸透されてしまって、気づかないうちに自分の体に入っているだろうと知っています。それは社会構造によって個人が選択できない状況が生まれているからでしょう。もちろん一切を拒否することも可能ですが、それは生きてて楽しくない。)
僕たちは6、7年前から宅配の「大地を守る会」で無農薬、減農薬の食材を購入し、足りない野菜や食材などを近所のスーパーなどで買い足している生活をしています。玄米食はもう10数年ほど続いてるでしょうか。ですが仕事で忙しい時や、小腹がすいたときなどにはコンビニでお菓子や菓子パンを食べたりしますし、格安の牛丼やチェーン店の居酒屋などにも行きます。ですがそうした時には、どこかで罪悪感があるのも事実。別にそんなふうに思う必要ないはずですが、まだ僕も「こうあるべきだ」という食事への観念がためらいを生んでいますね。。