過去に“もしも”を導入してみる、ということ

前回書いた、日本の国の構造についての話がまだ頭に残っていたためか、
先日本屋に行って目に留まったのがこれ(↓)。

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

読み始めたばかりなんですが、
内田さんの明快な口調が実に読みやすくぐんぐん読み進んでしまいます。

 

まず、「歴史に“もしも”を導入する」という想像力を太平洋戦争の時代に用いて、
「起こらなかったかもしれない現実」と「どうなっても起こっていた現実」という濃淡(強弱)を見分け、そこを吟味することでこの国の軸足はどこに立っているのかを探っていこうと始まるのですが、
この手法は、そのまま個人についても適用できるんじゃなかと思ってしまいました。

 

歴史に「もしも」を適用してみるのです。「もしも、あのとき、『あんなこと』が起きていれば、そのあとに『こんなこと』が起きていたはずである」という想像をする。そして、この「もしも」という仮定から導かれる条件法過去的現実の中には二種類の現実が含まれます。僕たちがついに一度も見たこともない現実と、僕たちが見慣れた現実です。転轍点「向こう」にレバーを押していたら現実化しなかった「弱い」現実と、どこの転轍点で何度軌道修正しようと必ず現実化したはずの「強い」現実です。その二種類の現実を識別することができれば、僕たちが今のどのような現実の上に立っているのかがわかる。(P35 街場の戦場論 著:内田樹)

 

この、「過去に“もしも”を導入」するアプローチを自分自身の現実に適用してみることで、今のこの現実は「起こらなかったかもしれない現実」に囲まれているのか、それとも「どうなっても起こっていた現実」になっているのかを見てみるってことは、
自らにとって「なにが大切なものなのか」どこに主軸・立ち位置があるのかを見つけられるアプローチになりますよね。

「もし自分のあの時、ああしていたら、こうなっていたんじゃないか」とか、
いっぱいあるものです。

それを単なる後悔の念とかだけに留めておくんじゃなくて、一歩冷静になって客観的に想像を進めていくと、その「ああしていたら」という選択や想像が単なる願望だったり、思い違いであったまま心の中でわだかまりになっていただけだったり、またその後の選択において大切だと思っていたものもあんがい流れでそうなっていただけだったかもしれないと思ったり、もちろん「あれ、でも結局こうなっていたかな」とかだったりすることもあるでしょう。

僕の場合、
つい最近まで少年時代から目指していた漫画家への夢を捨てたことへの後悔のようなものが消えずに残ってたことがあります。

何度もなんども「思い返しても仕方がない」とか、「もうその夢を捨てたことからの現実を重ねてきているのだから、そんなことを振り返ったってしょうがない」とかいろいろ自分を説得したりしてきたはずなのに、
それでもやっぱりあの時のような純粋でまっすぐな情熱を持っていた自分が羨ましくて羨ましくて、
そんな情熱を他のどんなものにだって抱くことが出来なかった自分を、不能者のように感じて嫌悪してたりしてましたから、
結構この思いが大きかったんですよね。

で、その後に現代アートとかの制作を始めたりするんですが、
それもここを分岐点とすると、僕にとってアートの世界は案外「弱い現実」になるんじゃないか、とか思ったりしたんですが(漫画家になっていたらアートの制作はしなかったはずだと)、
だけどそこで得たり身になった価値観や興味対象などは、「抗い難い、どうなってもこうした自分になっている」ぐらいに「強い現実」にしか思えず。
となると、「そのまま漫画家になるために創作を続けていたら、どうだったのか?」を改めて冷静に想像してみると、「別のポイントで辞めていたかもしれない」自分に出くわす気がして、疑わしくなってくるんですよね。結局マンガ辞めてアート制作やってたかもしれない、という気もしてきますし。

そうして思うと、
夢を捨てたことへの後悔の念というものが、
途中で「こうなっているべき自分」みたいな欲望が混ざってて、
後悔の念だけを増長していっただけだと思い当たるんです。

「僕はあの時こうしてなければ、こうなっていたはずだ。そして今はこうなっているに違いない…」

もう後悔の念がこうした仮定をしているだけで、
すでに仮定から十分に己の欲望がたんまり入っているのに、
その念に襲われたりしているとそれが分からなくなってしまう恐ろしさ…。

 

感情的に自分自身を否定したり、
拒否したりしているときには、
たいがいその背後には欲望が隠れているものだと自覚しました。