本というものは
どのように読むか、それぞれほんとに勝手な感じで。
僕の場合、昔読んだ本を引っ張り出してはまた読む、なんてしょっちゅう。いつしか通勤時には必ず本を持っていくようになっている。鞄の中には本とメモ帳、なんて程度。
読み終えて、印象に残ったこと、一つあればそれでよし。
そこから自分の中で熟成させて発酵させる。その後全く違うことであってもよし。
(その時引き合いに出すのは気を付けたいね。。)
で、今回読み出したのが保坂和志さんの「世界を肯定する哲学」。発刊してから結構すぐに買って読んだんだが、すっかり忘れてた。
7月7日のブログに書いたが、ほぼ日の保坂さんの話でいいこと言う人だなあ、って気になってみたら家にこの本があったという次第。
読み始めて早速おもしろい感じ。
「そもそも人間はこの宇宙に存在しなかったのではないか」
という気分が生まれるとき、存在に関わる自明のサイクルが途切れて、「存在」が始まる。
自分たちの足下に当たり前のようにあった大地をひっくり返されて、自分という人間の存在を突き放して見た感じ?と言えばいいのか、どうか。
存在は僕自身の制作活動のテーマの一つ。それはどうしようもなく常に自らと共にあり続けるようで、見えるモノ自身の裏に潜んでる、それは常に捕まえているようで、全く何も掴んでいないような。
「存在」が始まるには、存在に関した思考のサイクルを断ち切り、自分の身体と向き合うことであるような気がする。
何故生きているのか。生きている意義を、意味を、感覚を誰しもが求めている、その渇望感自体が人間の業のような。。
「そもそも人間はこの宇宙に存在しなかったのではないか」という問いは、そのようなものを求めている人にとても深く、ゆっくりと入り込み、思考の大地に化していくように思えた。