書き進めて

先ほど、昨日書いた「映画、白夜を観終えた後の文章」をここで改めて打ち直したけど、そのとき、いくつかの文章に引っかかる点があった。

ただ言えるのは、私はそれまでとは違う存在であるということだ。
(略)

ただ違った在り方で世界に身を置いている。

これは映画が浴びるものであることの証である。

と、

しかし今の私は、ああ、徐々に、”映画の余韻から覚めつつある”と言うように書くと、もうこれが、ただの一般的な経験でしかないと、つまらないものに堕してしまう。いや自らでそう置き換えてしまうのだ。

という点です。

 

前者の感覚というものを、僕はここではあえて説明することを避けている。その理由が、次の後者の内容になる。簡単に言うと、そのとき僕は、感覚を言葉にすることで、その感覚の中にいることから出てしまうことを恐れたんだと思う。それはそれで正しくて、でなければ「違った在り方で世界に身を置いている」という言葉が自分の中からは出てこなかっただろう。

だけど、言葉によって体験を定義することが、「一般的な経験でしかない」と、つまり「堕する」ことであるという考え方に、いやちょっと、それ違うよ、と言いたい。そのときの僕よ、体験や物事が言葉に化することで「一般的」であるという定義はそもそも僕自身が行っていることだろう。「自らでそう置き換えている」と書いているように。だけど言葉に置き換えることが、僕自身の体験を「堕する」ことになるのなら、あらゆる文学は「堕した」ものの集まりであることにはならないか?さすがにそうは思っていないでしょう。だからこの言葉は、とても嫌なものだよね。読んでいてあまりいい気持ちにならないし。見下しているような、自分が上にいるような気分があって。言外に自分は一般的なものではないものの中にいるのだ、という特別視した気分が鼻につく。

 

うーん、こんなこともう分かりきっているんだよね。今さらって感じで。自分を打ちのめすのだけは得意だなwww。

 

…こうしてまた書くことから遠ざかってゆくんだろうな。ゆえにますますどうでもいいことを書くことしか出来なくなる。
ならば書き進めよう。分かりきっていることも、もう一度、何度でも、自分の意識に浮かび上がらせて輪郭を与えて、吟味できる対象にしていこう。

 

ここでは「違う在り方として世界に身を置いている」ことと、「言葉にすることで体験を堕としめる」という認識の背景を明らかにすること。
とテーマを定めたところでいつも打ち切りなんだ、僕は。

思い出したら書き進めよう。