白夜にて
昨日、久しぶりに渋谷ユーロスペースへ、最終日となっていた映画「白夜」を見に行った。
見終わると、いろいろと書きたいことが頭をよぎる。ようやく場所を得て、ノートを開き、書きなぐった。
以下はその内容。(くどい感じだがあえて編集せずそのまま載せる)
頭の中でくり返し言ったことだが、ようやく書ける場所に落ち着いたので、書こう。
映画は浴びるものだったのか。観るでも見るでも、ましてや体験するなんてものではなく、浴びるのだ。
その時間、映像が流れる間、席を立ってはいけない。話してはいけない。声を出してもいけない。トイレにはがまんして、電話が鳴っても出ないように電源を切っておけ。
その暗闇の中、正面に浮かび上がる映像と音に身をさらして、浴びるのだ。
それができる映画、できない映画というものがある。言えば浴びる価値のないもの、だが今はそんなどうでもいいもののことたちは忘れよう。
私は映画を浴びたのだ。シャワーを浴びるように、原発事故で放射能を浴びせられるように、私は、その時、映画を浴びていた。中に入り込むというのとも違う。何か考えながらというのともまたそれだけじゃない。ひっくるめて体験と言いすますことには抵抗をを覚える。
浴びたものはすぐに身体から消え去りはしない。外に出て、ゆっくりと外の景色に身を置くことで、徐々におだやかに薄まってゆくが、まだ、何かが残っている。世界観とか、映画の感覚とか、ああそんな言葉で今のこと私を汚さないでくれたまえ。
ただ言えるのは、私はそれまでとは違う存在であるということだ。
それはつまりどういうことなのだ?
ここからやがて消え去ってゆく未来の私に向かって説明してもらえないだろうか?そんな必要はない。
消えたものは、消えるべきもの。思い出すこともないのなら、そういうものなのだ。未来の私よ。その私に従い、自信を失うな。
しかし今の私は、ああ、徐々に、”映画の余韻から覚めつつある”と言うように書くと、もうこれが、ただの一般的な経験でしかないと、つまらないものに堕してしまう。いや自らでそう置き換えてしまうのだ。
ただ違った在り方で世界に身を置いている。
これは映画が浴びるものであることの証である。
半減期はいかほどか?大丈夫。想像以上に長いものだ。
世界はまだ十分美しく目の前に現れているから。
そしてたちどころに醜さにつつまれる。その相反する様相がくり返しくり返し世界を行き来する。
そう、だから大丈夫なのだ。
酔っていますね。「〜たまえ」的な言葉遣い、普通じゃやらんでしょ。
でも、まぁいいのです。それも僕の気分なのですから。その時の代弁者である僕には、そのような言葉しか出てこなかったのですから。なのでこれは別に感想文とかでもなんでもない。だけど、「白夜」を観たから出てきてしまったものであることに変わりはないです。
白夜、上映期間延長したそうな。東京ではもう一週間やるらしい。跳ね起きてモーニングに駆け込む必要もなかったかな?