ヒプノタイジング・マリアより

ヒプノタイジング・マリアより

ヒプノタイジング・マリア(著:リチャード・バック)を読みました。

面白いところをこれから幾つか書き留めていきます。

生きるためには空気が必要で、家と食べ物と水がなければならない、ものごとを知りたければ目で見、耳で聞き、手で触れなければならないという信念。信じたものだけが見え、信じていないものは姿さえ見えないのだ、とそれを前提としてきた。

だが待てよ。信念ってやつは気分を変えたぐらいで消えてしまうような他愛ないものではあるまい。日ごとくりかえすこの人生のゲームだけが真実なんだという思い込みは、もはやぼくたちが生きているあらゆる瞬間に深く消しがたく刻まれている。

彼は書きなぐっった。“信念は命を制限するためにあるんじゃない。ゲームを楽しむのに必要だからこそあるのだ!”(P103)

また、

大多数の人がそう思い込んでいるからという理由で、自分まであれこれしかつめらしくなることはない、萎縮したり怯んだりする必要はまったくないんだ。

怯む?いったい何に対して?

貧困や孤独、病気、戦争、事故、死。が、そんなものはみんな脅しにすぎない。怖がるのをやめた瞬間に無力化してしまうのだ。(P104)

 

この小説は、飛行機乗りの主人公が、過去に催眠術にかかった経験を思い出したことをきっかけに、現実が思い込みで作られてゆく催眠術のようなものだという認識を抱くようになってゆくという、世界観が変わってゆく過程を描いているのですが、こうした認識は単に「非常識」であり、「お笑いごと」や「あり得ない」話として語ることはできないと思っています。

事実や現実というものが絶対的他者として、自分の「外」にあるという世界観は、産まれてから育ってゆく上でほとんど無意識のように「当たり前」のようにあったわけですし、科学技術が中心となっている現代文明においては、客観性という他者のあり方がもう大前提になっているわけですが、ここで語られる世界観は、そうしたものから大逆転の世界です。

でも僕にはとても「あり得る」という範疇です。「あり得てもいいよな」という思いです。(つづく…)