「私」の観点からの自由貿易論(グローバル定常型社会より)

 

引き続き、「自由貿易論〜新古典派経済学的な理解」に対して

  • 市場経済そのものに内在する論点=「私」

からの観点の箇所のメモになります。

 

自由貿易というものがある種の「不等価交換」のメカニズムを内包しており、市場経済そのものとしても正当化しえない性格のものではないか(P86)

それが生じるのは“国と国との間”というよりは、正確にはむしろ“異なる産業部門間”というべきであり、それは一国内においても(たとえば都市と農村の間や、製造業と金融部門の間といった形で)起こるのである。

この場合、一国内でのそうした不等価交換に由来する問題(例えば都市―農村の格差)については、(略)政府による何らかの再分配等の是正措置(産業政策を含む)がなされることが珍しくないが、国を超えた不等価交換についてはそうした再分配メカニズムは現在のところ存在せず、ここに問題の一つの根が存在しているといえる。(P91)

『グローバル定常型社会』

 

そしてこうした不等価交換という問題は、

上記のような労働に関するものから

自然資源に関するものへ再定義されつつあるとしています。

たとえば木材、鉱物資源、原油、漁獲資源等々の価値はその財そのものの中にあるのであって、それに加えられた労働にあるのではない。(P96)

人間が自然の物を採取(あるいは利用)する際、“人間が自然にお金を払う”ことはない。文字通り「自然はタダ」なのであり、そこに価格がつくのは人間がそれを(そのままか、あるいは加工して)他者に売る時である。それは「ゼロから有」への無限大の飛躍ともいえる。そして、すべての不等価性の源泉はこの点にあると考えられるのではないだろうか。(P98)

 

不等価交換の全体像は以下三点でまとめられています。

  • 自然をめぐる不等価交換(自然の商品化):都市 ― 農村(人間 ― 自然)の間
  • 労働をめぐる不等価交換(労働の商品化):産業化社会 ― 前産業化社会の間
  • 貨幣をめぐる不等価交換(貨幣の商品化):産業化社会・後期 ― 同・前期の間(or 金融化社会)

この貨幣をめぐる不等価交換について、

その前提となったポランニーの引用の言葉が興味を惹きます。

経済史家のポランニーは「労働、土地、貨幣」の三者について次のように述べる。

労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである。売買されるものはすべて販売のために生産されたのでなければならないという仮定は、これら三つについてはまったくあてはまらない。つまり、商品の経験的定義に従うなら、これらは商品ではないのである。(P100)

また現代のように、貨幣に最上の価値があるという幻想が生まれたことも

この貨幣をめぐる不等価交換によるのではないかと示されています。

需要あるいは消費が経済の駆動因になっていくと同時に、金融市場が大きく拡大し、すなわち貨幣が商品として売買されることが一般的となり、(略)「貨幣」そのものが商品化されていく中で、そこに「貨幣をめぐる不等価交換」が生成すると考えられる。

そして同時に、先ほどの「自然価値説」から「労働価値説」への移行と同様に、つまり自然から離れて労働が独立した価値の源泉であるとの認識が生まれたのと同様に、(労働を離れて)貨幣そのものが富の源泉であるような理解が生成する。「貨幣価値説」とも呼ぶべき認識が生まれるのである。(P103−104)

こうした不等価性には、市場経済の「外部」が必要であること、

これら三重の不等価交換の不等価性は、それぞれ(自然、労働、貨幣)がなお多く市場経済の「外に存在していることを前提に(あるいはそのことによって増幅されて)生成するという点である。

現在のし上経済はこれらの自然のほとんど無償性(ないし“格安”性)の上に成り立っており、かつその有限性あるいは持続可能性について限られた認識しか持っていない。(P104)

“資本主義はその「外部」を必要とする”という言い方が可能だろう。かつてローザ・ルクセンブルクが示した「資本蓄積が進行するためには購買者としての非資本主義的外圏が必要であるとし、資本主義諸国がこの外圏を支配し同化するプロセスことが近代的帝国主義にほかならず、しかもこの外圏が次第に消滅し全世界が資本主義化したあかつきには資本蓄積は不可能となり、資本主義の世界的崩壊が訪れる」という認識が、現代的なリアリティをもってここにあてはまる。(P105)

またこれら三者における時間に注目して、

それぞれのズレが「不等価交換」を生み出す源泉ではないかと指摘しています。

市場あるいは経済の時間はもっとも“速く”流れ、(略)それに比べて「コミュニティの時間」は、相互扶助的な関係性や世代間の継承性とうことも含めより長期の時間にかかわるものであり、さらに「自然の時間」は(たとえば森林の遷移や気候変動といったことも含め)“超長期”にわたるものである。(P106)

「時間」をめぐる位相のズレが存在しており、こうした時間座標のズレが、自然の商品化、労働の商品化、貨幣の商品化において「不等価交換」を生み出す源泉になっていると考えらるのではないだろうか。(P107)

 

以上のように

自由貿易には、その構造の中に「不等価交換」という

公平性を欠いた構造が内在しざるをえないことが見えてきました。