深夜見た映画
映画「パッション」を見る。
メル・ギブソンの監督作品として有名かもしれない。
内容はイエス・キリストが捕らわれ、十字架に磔にされて死ぬまでを、ひたすら丹念に描いている。それはグロテスクとも形容してしまうほどのリアリズム。
このグロテスクとは、つまり過剰なまでの血と苦しみ、痛みが映画に満ち満ちているからだが、有名なキリストの最後の場面である十字架に磔にされた、よくヨーロッパの中世から近代にかけて見るあのおぞましいまでの姿、あの姿が現実に現れるにいたる過程を描くにはこのようなグロテスクにならざるを得なかったのだろう。
メル・ギブソンという人はとてもとても敬虔なキリスト教信者なのだろう。彼はこの映画によってキリストがその時受けた苦しみ、痛み、その周囲をとりまく憎しみ、軽蔑の感情いっさいを我が身に受け取ろうと望んだ余り、この映画を作ったのかもしれないとも思ったりした。
このイエスに象徴された姿を通して見えるヨーロッパ、その根源にはこれほどまでの血と苦しみと痛みが横たわっているという歴史的、文化的な、僕たち日本人にとっては異質性とも思える「何か」を垣間見た気がした。
「何か」とは世界を捉える感覚、それも個々人を超えて子々孫々受け継がれることによって伝わっている感覚、歴史によって受け継がれた感覚といえばいいのか。。
ヨーロッパの教会、それほど有名でないところであっても、人々が祈りを捧げるのは、キリスト像の、血と苦しみと痛みを背負ったリアルな姿であるということ。このことは本当に大きくヨーロッパの人々の世界感覚に関与してるのだろうと思える。
日本はどうだろう、そうした祈りの対象は、石であったり木であったり森であったり鏡であったり、何か目に見えない自然の力、自然との対話によって僕たちの感覚の歴史は受け継がれてきたのだろうか。。