未来のテクノロジーのあり方

テクノロジーが現在のように、生活の中にだんだんと浸透してきたその先に、自然と社会とテクノロジーとの関係はどうあればいいのだろう。

僕はまったくテクノロジーがなくなることに、未来の魅力を感じることはない。といってもテクノロジーだらけの世界もうんざりだが。

そこで、この関係について、示唆している文章があった。

小田マサノリさんが2月に大分でやられたという集中講座「メディアと芸術」の中にある「到達目標」というものが、とても魅力的。

[到達目標]
この講義が到達目標とするのは、メディア/テクノロジーを否定したり、あるいは、それが持っている「あやうさ」を警戒するあまり「テクノフォビア(テクノロジー嫌い)」になることではありません。過去から現在の多くの芸術や文芸作品、そしてそこにこめられた思索にふれることを通じて、個々のテクノロジーの発明とその普及によって「ひらかれるもの」や「失われるもの」「よみがえるもの」や「ひっくりかえるもの」(「授業方法」の項を参照してください)をみきわめ、「持続可能」で「共存可能」な適正なテクノロジーとはなにか(あるいは、どれか)を問う視点と感性を身につけ、実際の自分の生活のなかで、それを選びとり、あるいは、組み合わせてゆく実践的な態度、つまり「オルタナティヴなテクノ・リテラシー」の獲得を目標としています。

http://illcomm.exblog.jp/20329044/

「オルタナティヴなテクノ・リテラシー」というものが要請される背景には、当然それ以外の雑多なテクノロジーの存在という前提がある。

主体的に取捨選択できる知的な態度が必要になると同時に、そうした判断は各個人によって多様であることを認め、決して特定のリテラシーによって、規制されちゃったりしてはいけないことでしょうか。

ただ人間と自然の関係をさらに進めると、テクノロジーの出番はもっと少なくなるような気もするんですが。