公―共―私の構造、コミュニティの原理

『グローバル定常型社会』の最終章の第4章の残りのメモになります。

 

まずは公―共―私の構造について。

「公」…政府(公共性の主要な担い手の一つとしての)

「共」…コミュニティ

「私」…市場 (P176)

これらは経済的に見ると

それぞれが「再分配」「互酬」「交換」という関係性に対応しているとし、

以下のような図で説明が補足されています。

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P177 表4-2  近代システム以降におけるローカルーナショナルーグローバルのガバナンス構造の変容より

 

それぞれの原理においても、それぞれのレベル(地域・国家・地球)では

全く異なる性格をもつものと言えます。

個人的には、国家レベルという中間レベルの力を

どこまで削ぎ落としていけるかという点が今後に期待したいところなのですが、

その点には今までの国家観や歴史観から離れ、

より地理的・気候的な把握における集団同士のつながりが必要になると思います。

 

またこれら「共・公・私」それぞれの原理は近代的なシステムの前提とされていたのですが、

19世紀以降の産業化・工業化によって、

これらすべての原理が、ナショナルレベルに集約されたとあります。

近代的なシステムにおいて前提となった構図は…その後の現実の歴史の展開においては、そうした構図のとおり事態は展開しなかった。すなわち、やがて一九世紀以降を中心に生起した産業化(ないし工業化)の大きなうねりの中で生じたのは、「「共」的な原理(コミュニティ)も、「公」的な原理(政府)も、「私」的な原理(も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される」という事態だったのである。(P180)

なぜそうなったのか、それは産業化・工業化という段階で、

コントロールが必要とされた単位が

国家レベルまで大きくなってしまったとあります。

たとえば農業であれば、大方は比較的小規模のローカルな地域単位で完結するものだが、産業化(工業化)以降の段階を考えると、たとえば鉄道の整備、(高速)道路網の敷設、工場や発電所等の配置等々、その多くはそれまでのローカルな単位を越えた計画や投資を必要とするものであり、そのいわば最適な空間的単位(あるいは主体)として浮かび上がるのはナショナル・レベル(の政府)となるだろう。(P181)

確かに産業などが必要とする資源や人員は、

コミュニティをはるかに超えるものが必要とされるようになり

労働もこの時代に大きく変わっていきました。

また帝国主義が台頭している時代ですので、

国単位における国民、そして国力という概念によって戦っていた時代ですので

当然ナショナルレベルによってできるだけ全てをコントロールしようとする動きも

あったと思われます。

 

そして現在では、経済の最適な空間的単位は

そのナショナルレベルからさらにグローバルレベルへと移行しています。

これらの帰結として、「すべてが「世界市場」に収斂し、それが支配的な存在となる」という状況が現在すすみつつある事態に他ならない。(P183)

 

そうした現状を踏まえつつ、

今後の基本的な方向としてあげられている点をここでまとめると、

(1)各レベルにおける「公―共―私」の分立とバランス

ローカルーナショナルーグローバルの各レベルにおいて、
「コミュニティ―政府―市場」三者の分立とバランスを確立すること

(2)ローカル・レベルからの出発

各レベルの相互関係において、ローカル・レベルからの出発という認識を持ち、
その基盤の上にナショナル、グローバルというレベルでの政策対応などを積み上げていく
「地域自給プラス再分配モデル」と呼応する。

というように、ローカルを土台としながら

各レベルと対応していくことが求められるとしています。

 

次に今後の世界の経済活動として。

「生産/消費の重層的自立・分業」を基調としたものであるべきではないだろうか。すなわち、

(1)物質的産業、特に食料生産(及びケア)はできる限りローカルな地域単位で。…ローカル〜ナショナル

(2)工業製品やエネルギーについてはより広範囲の地域単位で。…ナショナル〜リージョナル(ただし自然エネルギー[風力発電など]についてはできる限りローカルに。)

(3)情報の生産/消費ないし流通についてはもっとも広範囲に。…グローバル

(4)時間の消費(コミュニティや自然等に関わる欲求ないし市場経済を超える活動)はローカルに。(P186)

 

ここでの分割は、結構自分が想像する世界と近しいものを感じました。

なによりもまず誰しもがコミュニティというローカル・レベルを

大前提として了解していることが求めらる点、

情報ネットワークがよりグローバルに拡散されている点も大切なところです。

 

そしてこの(1)の食料生産とともに挙げられている

ケアに関しての補足が興味を惹きました。

 

コミュニティという言葉でひとくくりになりがちな人間集団の単位において、

どういった関わりや活動が基本となっていくかは大きな問題ですが、

このケアという面で書かれている点は

コミュニティの存在理由ともなり得る大きな一つとも思えます。

高齢者や子ども、障害者等々に関する様々な「ケア」はもちろん、コミュニティやつながりということを広く含んだ意味での“ケアの自給”が、まずはローカルなレベルでなされることが大きな課題となる。(P188)

「臨床(ないしケア)レベル」における環境と福祉の統合という課題がある。これは、福祉や医療、教育、心理など様々な「ケア」の領域において「環境と福祉」の統合を図っていこうとするものであり、森林療法、園芸療法といった“自然との関わりを通じたケア”の試み――「自然の持つ治癒力」をケアに活用する試み――はそうした例である。(P190)

「ケア」という営みは単に個人と個人との間の「一対一モデル」に還元される性格のものではなく、むしろそのベースにはコミュニティ、自然(ひいては直接目に見えない「スピリチュアリティ」)の次元との「つながり」を喪失しがちな現代人にとって、そうした次元を回復することが本来の意味の心身の充実につながり、ケアとはそうした回復の試みであるという理解である。(P191)

 

今後の基盤と考えられるコミュニティの内容に関して、

都市型と農村型の関係性という、大きく2つに分けてそれぞれの特色をあげつつ、

双方のよいところをいかに伸ばして

関係性を作り上げられるかがポイントとしています。

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P192 表4-3 「つながり」のあり方―コミュニティの二つの形成原理より

(A)の長所は保持しつつ、いかにして(B)のような関係性を築いていけるかが、おそらく今後数十年の日本社会の最大の課題の一つといえるだろう。(P193)

日本における共同体的な体質の問題点として、
“集団が内側に向かって閉じる”という傾向が顕著になりやすい。…ある集団ができると、その内側では非常に濃密な気遣いや同調性が求められる一方、その集団の「外」に対しては、無関心か、極端な「遠慮」(あるいは潜在的な排除・敵対関係)が支配するというあり方をさしている。(P193)

 

こうした問題点は日本に現れやすいと思いますが、

(日本がこれまで海に囲まれた島国であることも一因の気もします)

日本以外であっても、集団において「外敵」が想定されてしまう状況であれば

集団を守り、敵を排除する傾向は出てくるように思います。

 

未来においては、「遊動」生活と「定住」生活が共存していることによって

こうした問題が克服されていると想像してみることはできるでしょうか。

 

他者や異文化が流動することにより、

都市型の様々な個人を受け入れられる土壌が出来上がり、

同質的な結びつきにこだわらないコミュニティというものが形成されるような

一個人でも「遊動」と「定住」が自由に行える未来。

 

今でも週末の田舎暮らしのように、

一つ同じ場所で暮らし続けることは変わってきており、

一個人が分割される分人が一般的になることで

住む場所もまた行き来がより自由になる世界、

そこではもちろん仕事の価値や意味も変わってくるでしょうし

家族観もまた変わると思います。