グローバル・ミニマムという問題
『グローバル定常型社会』より第4章の部分のメモです。
第4章では、グローバル・ミニマムという、
地球上の様々な地域における「豊かさ」の意味、
豊かさや貧困に対する普遍的な基準の問題について話が進みます。
グローバル・ミニマムとは、
ナショナル・ミニマムの類比として、著者の広井氏による造語とのことです。
その類比として出てくる「ナショナル・ミニマム」という概念ですが、
それは国民・住民が満たされるべき最低の生活水準(ニーズ)のこと、
つまり社会保障や福祉国家という理念・政策とも密接に関わり、
国民国家の生成をベースとして、国家が積極的な介入を行う流れにあるものとあります。
「福祉国家」という理念と政策そのものが、潜在的には(その成員の確定ということを通じて)ナショナリズムと親和的な要素を持っているのであり・・・
(以下スウェーデン経済学者ミルダールの引用)
これらの国の国民は、国内での経済的福祉……すなわち、経済的進歩と自由の著しい増大と国境内のすべての者に対する機会の平等……を、国民主義的な経済政策に没頭するという犠牲を払って達成してきたのである。(P167)
「グローバル・ミニマム」という発想ーーそしてその実現のための「グローバル福祉国家」というシステムーーは、こうした議論の延長線上に自ずと浮かび上がってくるものともいえるだろう。(P168)
話題を広げれば、ヨーロッパの国々(やがてアメリカ)による“地球上の未開の諸地域”に対する様々な関与や介入が、純粋な「善意」からなされるものがかりにあったとしても、それがしばしばきわめて“独善的”なものでありえたという認識や反省は、「開発」や「援助」をめぐる現在のヨーロッパ等での議論においても常に自覚されていることである。(P169)
こうしたグローバル・ミニマムについての
それぞれのスタンスを示した表がこちらになります。(画像)
著者広井氏はB-1の立場を取りつつ、
現実的なグローバル・ミニマムを補完的に取り入れるというスタンスを語ります。
「ローカル・コミュニティ重視」の立場を基本にしながら、世界において市場経済の浸透が生じる限りにおいて、グローバル・ミニマムの考えを導入し、またその実現のための政策的対応ー「グローバル・レベルの福祉国家」あるいは再分配システムが含まれるーを進めていくというものだ。
このような考え方をとる理由は、第一に、…人間は地球上の各地域に移り住みながら、その地理的・風土的環境に応じた形で多様かつ独自の生活・行動様式や文化を作ってきたのであり、そうした地域ごとの(ローカルな〉コミュニティというものがまず基礎に置かれるべきと考えるからである。第二に、とりわけ(私たちが現に迎えつつあるような)定常化の時代においては、…地理的・空間的な多様性ということが重視されるべきであり、また人間の歴史を超長期のタイム・スパンで展望すれば、そうした定常性の時代が歴史の基調をなしているからである。(P174)
自然環境や風土と一体となったローカルなコミュニティをあくまで出発点に置き、市場経済の浸透やコミュニティ間の交流の度合いに応じて、補完的なものとしてグローバル・ミニマムと呼べるような普遍的基準や必要な再分配等の対応を考えていくということが、こうしたテーマに向かい合っていく際の基本的なスタンスとして確認されるべきではないだろうか。(P175)
ローカルが基本となることについては賛同できるにしても、
こうした問題は大変むずかしいですよね。
現代では何もかもがグローバルになりすぎて、
さも世界全体で統一した幸不幸の捉え方をしようとしたりしていますし、
現在の市場経済の浸透を許容することとバランスがとれるかどうか。
(僕は今のところ、グローバルな情報ネットワークはさらに広がって欲しい半面、
市場としてモノが流通することは小さくなっていくほうがいいと思います。
地産地消でまかなえる地域と、
それではなにもやっていけない地域という格差はあるでしょうけど、
遠い国や場所で収穫される食物や天然資源などが、
簡単に手に入りすぎるという現代の状況もまた異常な気がします。)
人道上な問題にはやっぱりグローバルな見解が必要かもしれませんが、
その強制力や監視管理能力という権限をどの程度にするのかとか。
交流の広さと、価値観の多様性を保つこと、
さらにその多様性はどの程度まで許容できるか、
むしろ線引が必要かどうか…、未来ではどうなっているんでしょうか。