#018: 長い時間のスパンを採用する理由
『未来の世界を想像するチャンネル』
昨日(#017)、未来の世界で、高層ビルが解体するプロセス、
それも自然の力を使って、100年とか長いスパンでゆっくりと解体が進む、
それを人が見守る、世代を超えて人が見守る、
で、そこからちょっと思ったときに、
なんでこれ、その長いスパンで考えるんだろうな、
というところを今日はちょっと話そうかなと思います。
時間に関わる話になるんですけど、
200年後の世界の中で、その高層ビルとかがね、
200メートルとかすごい高いものがあるけども、
それの役目が終わって解体が始まるけども、
今の技術で数日とか数週間で
すぐ解体が終わってしまうような、
スクラップ・アンド・ビルドのようなね、
すぐ壊れてまた新しいのが立つ、みたいな。
それぐらいの短いスパンで
ポンポンポンポン、ものがなくなったりっていうことは、
僕の中であんまり未来的な感じはイメージ全然なくて。
ゆっくりと、こういった形で自然の中で解体をしながら、
自然のプロセスに従って、緩やかにその姿を終えていく。
そういったところっていうのは、とても自分の中ではあるんですが。
この100年とかっていう長い時間をかけて、
あえてそれぐらい長い時間をかけて、
本当は今の技術でさえ数ヶ月もかからない、きっと、
高層ビルとかの解体っていうものを、
なんでそれぐらい長い時間をかけるのかっていうところなんですが、
そもそも時間の感覚っていうものを、
今の時代から大きく変化した時代意識、
そういったものがあるといいなというか、
未来ってそういうふうなものだといいな、
というふうに考えているっていうところが一つあります。
例えば森林の森とかを管理する、
今の現代でも森林とか樹木を相手に研究されている人たちっていうのは、
森はそもそも100年単位とか、
そういったスパンのほうで考えて研究するっていうのがあるぐらいに、
時間軸の捉え方が全然違う、というところもあり、
そういうのも刺激を受けながら。
今の時代っていうのは、数年、数ヶ月でどんどん変わっていくっていうところで、
目まぐるしくどんどん変わる中で、
一人一人の人間においても、
今の自分が生きている間に何かできなければっていうような、
自分一人の世代で何かを完結しないといけないっていうのを
当たり前のように、課せられているというか、
そういうふうな窮屈さを感じることがあって。
一方、森とか100年単位っていうことで考えると、
一人の世代で到底到達できない、
終わりが見えないものに向き合うっていうのって、
とても、
人の命として、自分の命が果てた後も、
それがまだ続いている。
そういったものに向き合うっていうので、
命としてとても謙虚な態度だろうな、というふうにも思うし。
自分が生きている、この生命っていうところに対する捉え方、
また次の世代とか、インディアンが言ってた七世代先とかね、
そういったところにもつながるような、
自分が生きていなくなったあとに、
何かが続いていく世界に対して、
そこに視野を向けていくっていうところって、
今の時代にはあまりなくなっている。
現代社会とか経済の中ではなくなっているところが
多いんだろうなと思うだけに、
ちょっとそこから今の現代から大きく離れていきたい、
っていうのがひとつ。
あえて100年という単位で
高層ビルを緩やかに解体させるっていうプロセスを、
僕の中に持っています。
別に100年じゃなくてもね、
全然いいんでしょうね。
5年とか10年とか。
でもそれだと、やっぱり短い。すごい短い感じ。
ひと世代で終わらないっていうのが、
とてもいい感じがするんでしょうね。
あの新宿、西新宿とかの高層ビルを、
1980年代とか70年代ぐらい、
そのあたりぐらいから建ち出して。
それ前は、水道の施設が——
水道局なんかの施設があったりとか、
全然まったく風景も違っていた、っていうところなので。
せいぜい50年、40年ぐらいのスパンで
一気にああいうものができた。
今は時代の要請があって、
ますますニーズが高まって、
新しい建物もできてはいるけども、
役割が終わったときに、
あのあたりをどういうふうに——
あのあたりというかね、あのあたりだけじゃなく、
そうやって今の時代に建てられた高層ビル、
大きな大きな建物、建築物、
そういったものが役割を終えたときに
どういうふうに自然の中に返していくか。
そういったプランというのをこう持っていこうか、
っていう視野って、とてもなんか、
自分的には未来的なイメージだな、という感じがしている。
そこで5年とか数ヶ月とかで終わるのよりも、
100年。一人の世代、3世代とか4世代とか、
それぐらいが緩やかに関わって、
その時間の中で——
上層部が少しずつ朽ちていき、
中層部もやがてだんだんそれに伴って朽ちていき、
下層部は最初むしろ、
その上層部、中層部が解体するまで
しっかりと土台として固めていく。
いろんな形が、この200メートルという
大きい建物の中でもいろんな層があって、
いろんな局面が生まれて、
いろんなドラマが起こって、
そういったものが100年続くと、
すごい面白い物語になるんじゃないかな、と思ったりもしますよね。
なので、時間というところを
ひとつ大きく意識を変えるだけでも、
そういったものの生み方ってできるのかな、
というふうに思います。
時間といえば、グレゴリオ暦。今使っている2025年とかね。
1年に12ヶ月で、2月は短いとか、
そういった暦をずっと世界共通として使われてはいるんだけども、
その時間の単位というのも
変わっていくと面白いなと思ったりします。
この前そこで提案したのが、
13ヶ月っていうやつで。(13の月の暦)
1週間が7日間。
それが4つ、28日。
1ヶ月が28日。
それが13ヶ月で364日。
で、1日だけ余るから、
その1日は「時間を外した日」っていう——
時間から解放されて、1年の終わりで、
祝祭みたいな、お祭りの日だよね。
そういった日がある、とかね。
そういった形のようで、
時間というものの捉え方って、
今は人間で一つにはなってはいるけども、
世界の中で、そこもいろいろ意識が変わることで、
歴史を通す全体を見る中に、
グレゴリオ暦っていうのは必要にはなってくるだろうし、
それを残しておくことも大事だろうけども、
新しい意識の中で使われ方っていうのも
また変わっていくと。
その中でまた違う新しい暦、
グレゴリオ暦ではない時間が使われる、
っていうのはまたすごい面白いし。
そうしたときに、100年とかっていうスパンって、
案外身近に感じられるのかもしれないな、
と思ったりしたりします。