生物多様性から文化がみえる

credit: Gavin Kealy via FindCC

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自然の中にある生物多様性とはどういうことか、ということについて

アグロエコロジー会議の中で高尾山を守る環境運動をされていた

坂田昌子さんの話が印象的でした。

一種類植物が消えてしまうと

それとともに生きていた何種類もの昆虫たちがいなくなる、

そしてその昆虫たちがいなくなることによって

何種類もの鳥たちもいなくなる。

 

自然の中では「マイナス1」が、それだけでは済まない世界です。

すべてその中で循環されている世界においては、

それぞれがそれぞれに影響を与え、かつ受け合っている以上

何も不必要なものはなく、循環システムを壊すような過剰なものもありません。

 

また生物多様性の世界と人間の文化の関係で言えば、

日本は様々な自然の情報を受け取って文化を育んできたと言えます。

 

色の名前や季節の名前、またそうした自然と触れ合い、

共生する生活があってこその俳句であり詩であると

それらの表現力は示しているように思えます。

 

自然にある豊かな情報を読み取る感性を磨くことは、

自然の生物多様性の中でなければできないと。

生物多様性が失われるということは、すなわちそうした感性を、

そして文化を失うことになることだと教わりました。

 

文化をいたずらに世界に発信しようとしなくても、

地域で最善のものの中で生きることが、

世界に価値を発信できる文化の魅力を育むことができるのではないか

というお話も刺激的でした。

 

クールジャパンという用語が寒々しく響く経済社会で、

消費対象としての輸出産業としてでてくる文化の

それ自体の特異性は大きなものがあるにしても、

長い時間を生き永らえて継承されるものが文化となりうると考えるとすれば、

そのような経済的な意義で定義されて囲われた自体でその効力が失われる・・・

と思ったのですが、これは少し性急でありました。

 

過去の文化をいたずらに礼賛することが文化を守ることではありませんから。

それぞれの時代において特有な事情・状況によって

文化が伝搬し、継承されるにしても

その魅力という内実はその社会によって独自性があるものですし、

なによりも「広がっていったこと」という事実こそが大切かもしれません。

 

現代においては、経済・自由貿易における物流、

またインターネットによって世界中の情報、文化が交流しているという

このネットワークの広がりそのものは、前代未聞の状態です。

 

文化自体を商品化することに対しては気持ちのよいものではありませんが、

ネットワークが広がっている事自体は大切な価値だと言えます。

 

さて、こう考えると

どのように現代のようなネットワークを維持継承しつつ

かつ地域から始まるローカル文化を大切に育むことができるか、

モノを「消費価値」としてしか捉えられない時代を飛び越えて

文化の価値を創り継続できるか、という点は大きな問題として見えてきます。