「公」の観点から自由貿易論をみる(グローバル定常型社会より)
書籍「グローバル定常型社会」において、
市場経済のグローバル化の見方の一つ
「自由貿易論〜新古典派経済学的な理解」に対して
- 公共性・分配の公正をめぐる論点=「公」
- コミュニティとの関連をめぐる論点=「共」
- 市場経済そのものに内在する論点=「私」
という3つの観点から捉えているところをメモしておきます。
まず前提としての「自由貿易論〜新古典派経済学的な理解」の本質とは何か。
それはグローバリゼーションが進行した現代を示すような
ボーダーレス化を促す認識である、と言えそうです。
市場経済というものが国境の制約を超えて相互浸透し、その自然の帰結として、世界において“一つの財・サービス市場、一つの労働市場、一つの資本市場”、要するに一つの大きな市場経済がグローバルレベルで成立する(=世界市場)というものであり、しかもそれによってもっとも「効率的な資源配分」が実現するというのは、(新古典派)経済学の原理からして半ばトートロジーとも言いうるものである。(P78)
こうした認識に対し、まず「公共性・分配の公正」の観点においてみると、
実現されるとする「効率的な資源配分」が実現しても
公平な分配は保証されていない生まれないとしています。
自由貿易論の考えは突き詰めれば、…一つの「世界市場」が成立するというビジョンに他ならない。であるがゆえに、そこで保証されるのは効率性すなわち「効率的な資源配分」であり、それが「公平性」(特に公平な所得分配)を実現するという保証は原理的に存在しない。このことはまず明確に確認されるべきである。(P80)
この「効率的な資源配分」については以下のような補足があります。
ここでいう「効率的な資源配分 resource allocation」とは経済学でいうパレート最適、つまり「複数の人の間で限られた資源を分配する場合に、他の人の効用を下げることなくしてある人の効用を上げることができないような配分のあり方」をいう(P79)
誰かのものを取らないと、他の人にあげれない、
ということでしょうかね、ざっくりとした理解で言うと。
人間は限られた資源の奪い合いの歴史なんだよ、という開き直りでしょうか。
(その原理が世界中で徹底された世界…、なんて息苦しいんだ…)
広井氏はこの点を解消するためには、
何らかの「再分配」のシステムが原理上必要と書いていますが、
分かち合う、贈り合う、供与とか贈与システムのようなもので、
また別の新しい展開ができそうな気がします。
「共」「私」の観点からについては、明日更新したいと思います。
画像出典:http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/1EWuL2GIKv5lpTPNBYct