天邪鬼とはすることもしないこともできる力
本日、とあるトークイベントへ行ってきたのですが、
そこで自分がいかに天邪鬼(あまのじゃく)であるか骨身にしみました・・・
皆で食べれるようシェアされた食事に手を付けようとせず、
入場したらつけてね、と言われたネームタグを付けようとせず、
知り合いもないので誰とも口を利かず、
聞きたかったトークを聞いたら、
最後まで残ることなく帰ってきたのでした。
もっともこれは別に反省でもなんでもなく、
そうしたかったからそうしたまでですが、
それというもの集団行動がとことん苦手で、
人が同じことそろってやっていると白々しく思ってしまうとか、
同じ考えや方向に会場が染まっている場所のようなところに
ぶらりとこうして他人顔して行くと絶対に輪に入れないとか。
と言っても知っている人がいたり
彼女と一緒にいれればずいぶん違ったりもするでしょうし、
また逆に自分が知っている人たちや、自分たちが主役のものとかだと
楽しくワイワイやってるんですよね。
自分に「お客さん」意識があるということです。
でも会場にそうするような強制力が働いてたわけではないんです。
したくない人はしなければいい、
そうする自由を許容できる雰囲気はありましたので、
そこは大変ありがたいことでした。
そういえば、加藤典洋氏の本『人類が永遠に続くのではないとしたら』の中で
「することもしないこともできる」自由というものが書かれていることを思い出しました。
アガンベンによれば、力能には、「することができる力」のほかに、「しないことができる力」があり、その「しないことができる力」(非の潜勢力)は、「することもしないこともできる力」(偶発性の力)として、アリストテレスの「存在することができる力」という概念(潜勢態―デュナミス)のうちに含有されている。 P318
「することもしないこともできる」力を、自由から力能までの幅で一つの概念として受けとり直すと、これまで見てきた近代の成長の思想が、一方向的にそうなることをめざす、「することができる」力の思想であることがみえてくる。またこの「することもしないこともできる」双方向性の力が、脱成長の思想に重なるものとみえてくる。 P324
いや、別にだからって言ってどうこうではないのです。
多くの人たちが集まって楽しくやっているパーティーの会場で、
楽しくやれればやれるのですが、
楽しくしない自由、というのもある、というそれだけです。
(もちろんそれで自分が満足して他人に迷惑かけないことが大事ですが)
※ちなみに今日行ったのはこちらのものでした。
アーバンパーマカルチャーの活動にはとても共感を抱いてますのであしからず(笑)
今後も色々と刺激を受けて、
future world imaginationの中で書いてみたいと思います。