リアルとバーチャルを超えようとする前提にあるもの
現代のテクノロジーは、
リアルとバーチャルの垣根を飛び越えることを目指しているのでしょうか。
まず、今日見たこちらの記事では
一昔前ではアニメの世界だった出来事が、
かなり近い形で様相で現実化され始めていることを知ることが出来ます。
光学迷彩を実際に作った教授らがフィクションとリアルを語る「攻殻機動隊 REALIZE PROJECT in AnimeJapan」
全身義体化技術、技術による人間の能力拡張という先には、
「ロボットやIT技術で能力を補った人」という新たな一つの人間像が浮かび上がります。
次にこちらのPerfumeのライブ映像の記事ですが、
このステージは、未来からまっすぐに届いた:Perfume、SXSWでのパフォーマンス
プロジェクションマッピングが多用された舞台上でのパフォーマンスは、
その場にいる人ほど「何が起こっているのか分からない」ほどに
目の前の彼女たちの存在が、舞台という現実の中で
バーチャル化(非現実化)していくことを目指しているようです。
これらに共通するのは
人間の身体とテクノロジーというテーマだと感じます。
そしてその方向性はいずれも
現実の肉体以外のところへ持っていこうとする試みと言えるでしょうか。
リアルとバーチャルの垣根をなくすという、
身体がロボットと組み合わさって代理・拡張していくことや
目の前の人間の存在が同時にフィクション的存在として映るという方向を進めるためには、
技術者の人々の中に、この目の前の「現実」というものが
視覚や聴覚を主とした「映像」と近しいものであるという認識や、
自然の存在そのものである、僕たちのこの人間の身体という存在を
すでに知っているという「既知」のものとしての前提すること
(少なくとも「知っているつもり」で生きていること)
などが必要になってくるように思います。
現代のテクノロジーの基本は、
現実のものをデータとして解体・分解し、それらを再統合、再配分することだと思っています。
(音楽にしろ写真にしろ映像にしろすべて分離解体して再統合する動きです)
ですがこの動きだけが現実だ、なんてことはあり得ないですし、
現実の世界を日常生活に浸透し発展するテクノロジーを通じてしか認識していない
ということになる気もします。
もしそうであるならば、
それほど単純に僕たちの世界や肉体を「既知」のものとして
済ましてよいのだろうかという疑念が生まれます。
テクノロジーと自然とのつながりをどう見い出せばいいのだろう、という疑問は
過去の投稿(定常的な社会にある技術の可能性)など前からの疑問なのですが、
そう思っていた時に、このような記事を見つけました。
テクノロジーは自然と共生するか? 「NATURE MADE」展
破壊することなしにクリエイトすること。それは矛盾をはらんだとても困難なことではありますが。それにはさっきも言ったように、モラルをもつこと、そして美に対する哲学的な見方をもつことです。
この「モラルを持つこと」「美に対する哲学的な見方を持つこと」
という言葉は、テクノロジーと自然が対立しないあり方を探る
一つのヒントとなるような気がしました。
画像出典:Ren Ri, Yuansu ⅡSeries (c) Ri Studio
http://wired.jp/2015/03/24/nature-made/#!/galleryimage_3