アートアグネスに行ってきました

アグネスホテルでのアートフェアー、アートアグネスに今日、行ってきました。
TABのレポート
今日一日どんよりとした天気でポツポツ雨も降っていたにもかかわらず、どの階も部屋も来場者でいっぱい。アーティスト、アート関係者、業界やら金持ちっぽい人。なぜか出会う来場者はみんなめちゃくちゃ個性的か、きれいな人が多かった。う~ん、顔もなにか示しているのでしょうか。
それにしても現代アートの現場って言われるエリアをひとくくりで見たのは始めてかも知れない。
ギャラリーを巡るよりも日本の有名どころが抱える作家の作品がまとめて見れるし、ホテルの一室というシチュエーションを楽しめたり、いやぁ面白かった。
それにしても現代アート、日本で見られるこれらの作品ってみんな多くが「現代人の抱く感覚」が画面に定着してて、それを鑑賞者に換気させるだけの起爆剤になりえているものなんだなってことがこのフェアー全体を通じてよく理解できました。
感覚を画面に定着させることに成功した作品ってものは、この現代という一時代を生きていた証としてそれが形として残りうるということだし、現代を生きる人たちにとってもそうした感覚を換気させられることは自らが生きていることの再確認として、パワーを与えられることだし、だけどそれだけにこれらの現代アートが歴史を相手にしたとき、はたしてこれらのどの作品が残りうる価値を宿すのか、単なる時代の空気だけでは難しいものかもなぁと思ったり。
またこうしたホテルを利用したギャラリーのフェアーというスタイルがターゲットとしているのは、やはり収入がある程度余裕のある、高額所得者あたりなんだろうなと改めて思いました。このような方向性、仕掛けそのものが西洋からの流れとして生み出された、いわば資本主義社会の成功者の証としてのアート収集という構図そのままを日本でもつくろうとしている、そんな感じもうけて、それってどうなの?とも思う。
そもそも何故こうした構図が生み出されるのか、って思うと、やっぱりアーティストっていうものは社会的に保護されざるを得ない存在、弱者で、アーティストが「自らの作品をつくることで生きていきたい」という思いゆえに、こうした資本主義社会の成功者と謳われる人たちとの接点を持たないとアーティストが経済的に自立できないということがあるのでしょうね。
アーティストがこうした資本主義的な側面から自由になれることはなかなか難しく、現在はここに代表されているように、アーティストになって生活するという社会的かつ経済的な構図がそこの中に組み込まれてしまっているんだろうかね。そこではたしてアーティストはただ自分の作品を制作するだけを考えることでいいのだろうか?とも思ったりしました。
もちろん自分としては一人のアーティストとして生きて、生活を営んでいきたいし、そのためにこうした世界に踏み込んでいくぐらいの気持ちはあるし、欲もある。
だが単純に資本主義の中心の「力の世界」って魅力を感じない。。
今朝の読売新聞に中沢新一さんと池澤夏樹さんの対談が載っていて、そこに
「すなわち、「力の文明」というものと、人間はどうやって対処していくか」
「彼(ロードオブザリングの作者、トールキン)はヨーロッパ文明が根底において力の文明であると見抜いて、その力の根源を象徴する指輪を捨てる物語を作った。日本列島に生きている人間として、このテーマをどう深めるか」
「力の中心を求めない形の文明では、各地域がそれぞれ自立的に機能しなければいけない。その結果、調和ある世界がおのずから生まれる。支配の中心はない。」
という言葉が印象的だった。
アーティストにとっては力を誇示すること、力に寄り添うことだけではない、何かがあるのだろうか。
アートとはそうした支配等、力の影響を受けない空白性があり、それが磁石となってさまざまなものを引き寄せる磁場なのかもしれない。それゆえにアートは人間にとって常に可能性の中心となる存在と言えるかも。