読書メモ「植物になって人間をながめてみると」

読書メモ「植物になって人間をながめてみると」

本のタイトルのように植物と人間との視点を逆転して関係性を捉え直す、というよりは俯瞰的な目線でそれらを捉えているようでした。僕としてはこれまでの人間の歴史の中で、植物という存在が果たす役割、影響力を改めて教えてもらえた一冊です。

サトウキビ、タバコ、お茶、コットン、ゴム…

現代でも大きな影響力をもつこれらの植物たち。
そしてこれらの植物たちの拡大の歴史が、そのまま僕たちの歴史と思えるかのように、大きな足跡を残しているんですね。人間が植物を利用する、という現代も続いているこの構図は、著者の方曰く植物からしてみれば人の手を使って勢力拡大に成功しているとも言えるわけでもあるようです。けれどそれだけじゃ少し強引な感じも歪めません。そもそもそれらの植物たちは、自ら望んで、それらの種の勢力拡大を意図していたとも思えないので、それはやっぱり人間がその植物たちを利用しつくために、結果としての姿でしかないわけですから。

 

「使う、利用する」という人間側の植物たちへのアプローチは、やっぱり読んでいていつも傲慢だなぁと思えます。僕たちは植物たちの恩恵にあずかっていなければ文明も生活も、生存もできないはずなのに、コントロールしている気になっているということがずっと続いているんだと思います。15世紀の大航海時代以降、植民地政策による植物と土地利用からとくにはっきりとしています。

でもこうした視点の逆転によってわかることは、人間だけの視点によっていてはいつまでたっても人口増加と食料不足を懸念する構図は変わらないということ。僕たちは人間サイドなのか植物サイドなのか、といういずれかをとるんじゃなくて、同等であるということです。

こう書くと地球市民的な視点からの話のように思えるけど、ちょっとそういう大げさな表現はだんだん好きではなくなってきました。植物との共存とか同等とかっていう意識は、きっともっと昔から自然に、当たり前に感じられるレベルのものだろうなと思っています。

 

たぶん、もうできてしまった都市のことを心配するより、わたしたちはバイオマスを含めた作物栽培による土地への影響や、海洋に影響を与える人間活動を真っ先に縮小すべきなのだ。石油からバイオマスへのすりかえで、農薬や肥料を使う植物栽培をやたらと広げないこと。バイオマス利用を海洋の世界まで広げるなんて、一番控えるべきなのかもしれない。
こうして冷静に考えれば、二酸化炭素排出量と温暖化の因果関係の有無にはかかわらず、また石油由来の燃料かバイオマス由来の燃料かの区別も関係なく、人間の消費全般を減らしたいとつくづく思う。(P301)

人間は自分たちの都合(世界人口爆発で食糧危機だから〜云々)で世界の中から自分たち以外のあらゆるものを利用出来るだけ利用し尽くすつもりなのだとしたら、とても淋しい。与えていただいたものは返礼する、そんな奥ゆかしさのある文明に立ち戻れることを望みます。それには自然に対するごく基本的な尊敬の念が必要だ。

 

まさにこの世は未知の未知にあふれ、調べつくしたうえでの環境対策も、予想通りの結果を生むとは限らない。だから知識を当てにしすぎるのではなく、こと環境に限っては、今は勇気ある積極的な不介入が大事な時期ではないかと思えてくるのだ。
どんな未知の連鎖反応が出てくるかも分からないのに、海洋に鉄の肥料などを撒いて植物性プランクトンを増やそうとするよりも、逆に海洋には出来る限り入りこまない決意を固める。消極的に手をこまねいて何もしないのとは違う、積極的な不介入だ。限りある人間の知識に基づいて計算に全力を注ぐより、人間の活動を全体的に縮小することに全力を注ぐ。その縮小すべき活動の中には、「知る努力」も含まれているかもしれない。
あまりにも人間の視点にこり固まった知識への欲望を積極的に手放すことができたら、世界が違ったものに見えてくるような気もする。世界は人間の知識欲を満たすために存在しているわけではないのだから…。(P310)

 

むかし海外の旅行から帰ってくる時の飛行機から眺めた雲海の美しさを思い出します。それは決して人類未踏のままの夢の様な場所。その上に立って歩くことができれば…、その果ての、はるか遠くにそびえる積乱雲へと旅することができればどんなに素晴らしいんだろう…。だけどもしそのような夢がかなったら、そこはなにがしかの「利用の対象」となってしまうのでしょう。でもそうではない付き合い方が人間には出来るはずです。