未来と現在をどう捉えるか
自分の描く未来というものを全ての立脚点に立ち、現在へとおろしていく思考というのは、目的地を設定したドライブだ。その設定内容が詳細であればあるだけ、それ以前に通過するべき、立ち寄るべき地点が明確になる。現在はそこへ至る中途にすぎない。
そして自らはその目的地へ至るスピードのなかに身を置くことで、日常を非日常に変えてゆく。
ここでは現在は将来のビジョンへ向けて全てが利用されている。もしくはそうしようとする。
無駄、無意味、回り道といったものは必要ない。あったとしてもそれ自体を楽しむよりもそれが生み出す価値を計算している。(あったとしても当初設定した目的地への変更を強いるようなものではなく、嗜好的だろう。)
将来のビジョンを明確に持ち、その実現にすべてを犠牲に出来る覚悟のある人にとってはなにより必要な思考だ。ここでは全ての対象が、己が描くビジョンへ到達するか否かで判断される。
到達したらどうするか?到達へのプロセスを歩んでいること自体とても重要なので、到達点を終了させることはない。到達する前にはすでに別の新たな到達点を設定している。ペース、リズムの緩急に変化をつけて自分の人生をコントロールしようとする。
現在を立脚点に思考する場合、ドライブというよりも散歩に近い。
目的地なんて特に気にしない。気分で歩き回り、その場その場で楽しみを見いだす。喜びを見いだす。気になったものがあれば立ち止まり、気がついたら同じ道をたどっていても気にしない。歩くことを楽しみ、目に見える全てのものに喜びを見いだそうとする。スピードの中で日常を非日常に変えるのとは異なり、日常そのものを喜ぼうとする己を見いだす。
未来というのは成り行きとなるだろう。それが楽しいと思えるかどうか。
この思考の場合、成功という概念は前者の思考と異なってくる。
前者は自分が設定した目的地へ到達することが成功なので、外的な、客観的な証が必要不可欠だ。(設定する目的地そのものが客観的な対象となるのだから。)
現在を立脚点に思考する場合、成功は外的ではなく、むしろ内的だ。現在をどう見ることができるか、どう味わうことができるか、自分の感覚に思考をおく。ゆえにそれは不安定でありやすく、自分の人生をコントロールするということは少ない。人生をコントロールするものと捉えていない場合もあるだろう。
僕は基本は現在を立脚点に思考するタイプだ。それを自分の価値として作り上げてきた。
未来を立脚点に思考するのはスパイスで十分かなと思う。成功不成功で人間を判断するのではなく、全ての人間の生き様に価値があると思える思考を持ちたいと思う。