固いと柔らかいのあいだの言葉
つい考えた事をきっちり書こうとすると、言葉が固くなる。
気を抜いて好き勝手に書くと詩あそびのようになる。柔らかいといえるかどうかは分からない。
思ったのは両方とも自分の言葉なんだけど、なんだろう、どうも自分の身体と距離があるというのか、感覚と距離があるというのか。自分以外の他者を想定して書いている事を意識することで、よけいな装いが入っているんだじゃないかと気になる。
今日読んだほぼ日の中に、「向き合う」ではなく「隣り合う」ということが書いてあって、ああなんだか僕はいつも自分側と向こう側とではっきり考えているんだなぁ、と。
改めて自分と他人とをきっちりと分けているというか。隣り合うでも自分と他者は別ではあるんだけど、向き合うというようなどこかはっきりと区別している態度じゃなくて、そしらぬ間であっても敵味方であっても、いろいろ、なんでも、区別が先にこなくて、それよりも共感とか、同じ位置とか目線とか、(境界線上とか書いてあったがまさにそれだろうなぁ)隣り合うっていう表現が、自分がなげかける言葉にも必要なんじゃないだろうかって思った。
僕は自分自身でこう思う。自分はこれ。あなたはどう?
これでもいいけど、始めに他人であるラインを引いた上で向こうがやってくるか拒否するかの二者択一しかないような感じ。他人を想定した言葉って、やっぱりこれなんだね。どうしても自分の意見は「これこれ、こう思うのであります」と明確にすることで自分を確認したい気持ちが強いんだろうね。これは。
隣り合う、となるとその言葉はそんなにはっきりと自分と相手とを分けずに、あいさつのように気軽に、やさしい。聞いたときにはそれほどたいしたものじゃないと思うかもしれないけど、ああ、大切だなぁと心から感じる言葉だろうし。
あいさつって「開く」ことでもあるそうな。つまり自分を相手に向かって「開く」。うぃーっす。ちぃーす。おあよぅーっす(おはようーっす)。相手を見てかるく会釈をして。心が閉じてたらあいさつなんてしないしね。絶対。下向いてるよ。人を見ないな。目をそらすな。そんななんだろ、無意味なような、でも知らず知らずのうちに生活の中で、人生の中で基本のように大切と思えるような。
といっても戦国武将のだれだか忘れたが、戦略家が自分の興味のある事以外は只一言「余事だ」と言って全て排除したという態度にも憧れるんだよなぁ。いやぁ。欲張りすぎだね。
そんな戯れ言、で以上終わり。