ツァイ・ミンリャンのインタビューを読みました

ツァイ・ミンリャンのインタビューを読みました

少し前の記事なのですが、

Art-itにて掲載されていたツァイ・ミンリャン[蔡明亮]のインタビューを読みました。

http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/QcpuR53vKYM9V10xEfJN

 

この監督作品は、随分前、

そう、ユーロスペースがまだ移転前の渋谷・桜丘町にあった頃、

「河」という作品を観て、

その恐ろしく静謐で淡々とした時間の流れが印象的でした。

それ以降あまり見る機会がなかったのですが、

このインタビューで語られていることがやけに印象的で、

この方が指摘するマーケットに対する問題だけでなく、

映画というあり方への姿勢に深く共感しました。

 

映画にとって、物語は最重要でないと考えています。小説やラジオ、テレビなど、あらゆるメディアを通じて、観客は物語やプロットだけを追っているように考えられていますが、そうした物語はみな作り話で、現実を描いていません。現実とは通常、そこまで美しくもロマンチックでもなく、もっと退屈でつまらないものです。それにもかかわらず、興行収入を目的とした映画の題材として、あらゆるものが魅力的に、誇張して描かれなければなりません。ここで、物語は現実を映すものとして用いられていません。

こうした文脈において、結局のところ、映画とはなにかを考えることが大切なのです。映画は視覚芸術です。映画とは「見ること」であり、それ以外の物語を扱うメディアとは一線を画しています。「動く」ということを除けば、絵画に近い。このことは何を意味しているのか。私にとって、映画とは時間をつくりあげることを通じたイメージの表現です。必ずしも観客が理解するために物語的手法を用いなければならないとは限らない。ただ、観客はこれまでに映画とはプロットで構成されているものだと条件付けられているだけ。これは非常に残念なことですが。映画に対する私たちの理解はますます衰退していっています。映画製作が視覚芸術であるならば、なぜ、それを理解するために物語が必要とされるのでしょうか。

映画が物語である前に、視覚芸術であるということ。

たしかにこうした姿勢の映画というものは、本当に少なくなってきたのかもしれません。

だれも理解しようとしない、といいますか。

(2時間弱ほど拘束されて芸術としての作品を見るという精神力がだれも持てなくなった、とも言えるような)

 

映画は現実を映す手段ではない。映画を使って、もうひとつの世界の真実をつくりだそうとしていますが、それが必ずしも現実世界の真実とは限りません。映画の世界は創造と変形を通じて形成されているので、夢やシュルレアリスム的な感受性を呼び起こします。すなわち、現実ではありません。

言うまでもなく、映画は絵画に近い。それだけでなく、映画は詩にも近い。誰かが体験したことではなく、自らの体験をもとに詩を書く。自分自身の体験を描いているのだから、私にそれを正しく理解しているかどうかを訊ねるのは意味がありません。観客はそれぞれ感じるままに感じ、そこに答えを見出だす必要などはなく、誰もが各々の視点を持ちうる。映画とは夜空に浮かぶ月のようなもので、誰にとっても同じように見えるけれど、そこから喚起される感情はそれぞれ違います。すべての芸術作品はこのようにあるべきではないでしょうか。

映画がエンターテイメントとして認知されるか、視覚芸術として理解されるか、

それは趣味趣向の問題というよりも、映画というものを「消費物」として取り扱うのか

「芸術」として取り扱うのかという問題であり、

つまるところそれは精神性の問題なのかもしれません。