最小の投資で最大の成果を得ようとする思考が普通であることについて

先日読んだこちらの記事の中に、ひとつ気になる箇所がありました。

「投票に行かない若者の利益になる政策を実行するより、投票に行く老人の利益になる政策を実行したほうが集票上は能率がよい」

「ネット世論」を分析しても、選挙の結果は“逆”になる理由 より
http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20141216/Itmedia_makoto_20141216012.html

 

これは投票に行く世代と行かない世代の格差の指摘から出てきた話ですが、

こうした考え方は、内田樹さんの本などでよく書かれていた

「投資と回収」「費用対効果」といった、ビジネスマン的な考え方、

つまり、最小の投資で最大の成果を得ようとする思考そのものだと気づきました。

 

例えば最近読んだこちらなどには以下のようにあります。

ビジネスマンの父親は子どもの教育についても、つねに「投資と回収」というスキームで考えるようになる。教育投資の費用対効果を電卓を叩いて計算するのが「当然」だと思うようになる。できるだけ少ない学習努力でできるだけ価値の高い学位や資格を手に入れることが「スマート」だという価値観を子どもたちに刷り込むようになる。それはある意味しかたのないことです。親自身が「そういう世界」しか知らないんですから。(街場の戦場論 P137 著:内田樹 ミシマ社)

 

これが政治であれば、普通は、投票に行かない若者の利益になる政策であっても、

国の未来において大切だと候補者が判断すれば、

それを全面に掲げるべき態度が自然です。

ですが当選することが目的化され、そのためにどのような政策を掲げるか、

ということになっているということですよね、

すでに目的と手段が逆転されているのです。

 

こうした思考態度が政治や投票の場面において、

いわば当たり前のように論じられていること、

それがすでに異常であることに誰も気づいていない(この記事を書いている記者自身も気づいていない)

ということに問題の根の深さを感じました。

 

気づいていたとしても、

そうした最小の方法で最大の効果を得ることは、

誰もが「人間として当たり前な思考態度」だとすら考えているように思えます。

別に本音と建前という話ではなくて、思考態度の問題として、です。

(そもそも損得勘定や費用対効果という考えをするのが、人間の本音である、という認識自体

人間という存在を表面的に把握している傾向であると思います。)

 

これはビジネスマン的と言えるとともに、

僕たちの根に深く染まっている消費者的態度、

つまりより僅かなお金でより価値のあるものを購入することがよい、という態度とも共通しています。

 

それは資本主義が徹底的に浸透したということだけでなく、

それ以外の人がいなくなった、見えなくなった、ということに

改めて不自然さを感じます。

それ以外の生き方が世の中から見えてこないのですから。

 

かくいう自分もそうした思考態度が、

もうずいぶんと思考の根っこに絡まれていることを認識しています。

例えば来年から探すことになる仕事においても、

時折「最小の行動で最大の成果を得よう」と考えていたりして…

 

ですがこのように身の上を振り返ると、

「投資と回収」や「費用対効果」によって周囲を測り、取捨選択を行うということは、

その根本には「何も考えていないと損をしてしまうかもしれない、騙されるかもしれない」という

恐怖が常にあるからなのかもしれません。

 

そうした根本的な恐れが、常態化していると思うために、

そのようなスキームを身につけざるを得ないと、無意識で思っているのではないでしょうか。