気づいたときに生きていた、と言えるには
気づいていた時に生きていた、という感覚が生まれたのはいつのことだったのか。
そうして思うのは、生きているということに気付くには、死というものを考えるようになった時かもしれない。
自分が人間として、やがて死にゆく存在なんだと知った時、ああそうか、今生きているんだ、ということに気づいたと。
けれど気づいていた時には生きていた、という感覚は、しかしそうした明確な死の自覚を覚えていないから、すこし曖昧なままなのだろう。
死の自覚、自分が死ぬことを考え想うのは、もしかしたら本来は成人儀式に関わっている要素なのではないだろうか、と思った。
どうしてそう思ったかというと、以前長坂優さんの公演を聞いた時に話されていた、「家庭内暴力やヒドい反抗期の子供たちをアマゾンの自然林のなかに一人で放り出す。そして、怖くなってわんわん泣いた後、一人でどうにかしなければ、という目つきになる。そこで顔をだしてやると、またわんわんと泣いて抱きしめてくる。それから向こうはすっかり変わってしまう。」というような話がきっかけだった。
彼らは自分がもしかしたら死んでしまうんじゃないだろうか、というおよそ日本では味わうことのない恐怖というものをそこで感じたんじゃないだろうか。誰も助けてくれない。今自分がなんとかしなければ、という今自分が生きていること、生きたいという思い、そうしたものが明確に生まれたから変わることが出来たんじゃないだろうか。
成人儀式というのは、どうやら人類最古の思想から来ているらしく、アフリカ原住民なんかでは、成人になったとき、たった一人で砂漠へ放り出し、数日間一人だけの力で生き延びてこなければならないらしい。他にもライオンやクマと戦ったり、高いところからダイビングさせられたりと、成人の儀式には、かなりな危険をともなうものが世界中にあるようで、それはたいがいの説明では男としての強さを求められるためと言われたりするけど、死を想う(味わう)ということがこの要素の中心にはあるんじゃないだろうかと思えてしまう。
だからと言って単純に死の危険性を賞賛するわけではないけど、生も死も分からないまま、生きていることになんら思いを巡らさずに死からひたすら遠ざけられている文化というのは、ちょっとおかしい。
それは死を学ぶ、と言い換えられるかもしれない。そうしたものを学ばずに生きてゆくと、自分が生きているのか死んでいるのか、そもそも生きているというのは、どんな感覚なのか、分からないまま、ただ単に日常業務や惰性の状況で時間ばかりが過ぎてゆくということになる。
死を学ぶ、ということは何も死ぬ目にあわなければ学べないものじゃないはずだ。自然を学ぶことの中には、死について学ぶこともあるんじゃないだろうか、とも思う。ちょっと走り書きだけど、ひとまずここまでで。