骨子

骨子について考える。
その人の精神的支柱である。信念を通す意志である。迷ったら真っ先に問いかける場所である。過去の忘れられない思いや出来事に感動を覚えることから生まれる。現実で常に問いかけられる行為の是非の選択を決定させる在処である。
これがある人間というのは、人として、立派な価値を持った人間であるという証である。
だからこれがない人間というのは人として立派な価値を持たないものである。
立派?なにが立派?優れた?なにが優れているというのか?
これらはその人個人の中では大きな意味を持たない。いや、持ちようがない。これらはあくまで周囲の評価判断、信念のあるなしだけで人の区別はつけようがない。問題はその人が何をやったかを周囲は問うだけだ。
その問題、何をやったか、は自分に対してもそうであるべきか?
否、と考えてみる。
何をやろうとするか、その判断時に自分は自分に対してどこを向いているか、後ろめたさを感じるか否か、でしかないと考える。
骨子は周囲の評価である。その人の行為した過去を見てその判断を下す。もしくは判断自体を見て位置づける。判断そのものに至る感情、克服や後悔、それ自身は見えない。個人にとってはその間の感情自体がとても大切だ。
自分には骨子はない。と思っている。
常に思いは振り子のように、その時々の感情や判断がそのときよりどちらに傾いているかでしかない。それは年齢や時代によって、また相手によって、時と場合と場所との総合的な判断を下していることでしかない。
もちろんこのことが過去に判断した事柄への言い訳として使われてはならないと戒める。後悔したとてその後悔すること、下したこと自身、自分であるということは承知している。
下した後はそれが自分自身であると開き直ればいい。
最近は骨子であるとか信念であるとか、一つのなにか大事なものというイメージを脱ぎ去り、それらは常にグレーでよいと思い始めた。
グレーであることは、常に判断に迷っていることだ。優柔不断であり、戸惑いである。判断を下すまで時間がかかる。下すときの自分の思念の質を追求する。
常に一つ一つの判断が問われ続ける現実では、もしいくら立派といわれるような骨子を持ったからといって楽になる訳ではない。むしろますますその振り幅は広がる一方だろう。
判断を行う自分自身の感覚、思念の質を追求してきたいと改めて思った。