鈍感?

僕は鈍感なのか、なんなのか。
昔敏感に物事をとらえたり、感じたり、そんな姿を見せるのが嫌で、動じない雰囲気をもちたいと思っていたりした。心の中がこう感じててもそんなそぶりを見せない、そんな落ち着いた姿になりたいと思ったりして、自分の中の感じ方がいつしか変わっていったような気もする。
そうするうちに、今はあまり悪い感じなりを気にしようとすることがなくなった。見なくなったといっていいかもしれない。瞬間その気を感じててもその反応を示すことが、自分の中で回路を絶ってしまっているうちに元の感覚そのものも鈍くなったのかもしれない。
こう思うと、自分の感覚よりも他人の目、どう見られたいかってことばかりに主眼をおいて生活している自分が浮かぶ。
動じない雰囲気を出しても、心の中はドクドクであったり。顔色だけで演技して。
そのうち自分がどこにあるのかわからないなんて滑稽。それもきっと徹底してないんだ。
いつもきっとどこかでボロが出る。
迂闊に漏らす言葉であったり、表現であったり、目線であったり、顔の筋肉の凝りであったり。笑い顔がずっと自分で嫌いだったのは、多くは妥協した笑い顔だからだ。目のつりかた、口の上がり方、その筋肉の若干のゆるみ、緊張感、不自然だと感じる時、それは本当の笑い顔じゃない。心の底から笑えないと、笑い顔は他人にとって以上に、自分自身に対して牙をむくだろう。その不自然さを経験し続けるという、これは自分の在り方に自分自身で傷をつけているようなもの。自傷行為。それも自分の中からの止む得ないものでもない、他人の目を気にしただけの、見栄っ張りが産んだ、見栄坊の過ち。
見栄をはるのは悪い事じゃない。だけどそれが自分を押さえつけたり、歪めたりしているかどうか、結局何に一番価値を置いているかだけなんだ。
自分の心か、他人からどう見られるかか。
どっちがどう、という言い方は簡単だから。
それぞれがある。ただ僕自身はどうありたいの、って話。自問。