行動はすべて道具化されることはない
先日、「なりたい自分になる」ということについて の中で
「目標としての未来を設定し、それを実現するための手段としての今が道具にされてしまう」
というようなことを書きましたが、
目標を設定することと、
それを実現することが、
必ず一致しなければならない。ということが念頭にあったため、
そこに至る全ての行動が道具化してしまうという
少し極端な考えとなったようです。
設定した未来が、必ずしも結果として実現するとは言えない、
ということも十分考慮してみると
(というか、そういうことのほうが極めて現実的)
未来・目標を設定すること、それ自体はなんら窮屈なものではないことに気づきました。
思いどおりの結果が出なければ幸せになれないなら、ぼくらはかならず苦しまなきゃならない。だってぼくらは自分の行動には責任がもてても、行動の結果がどうなるか、努力がどう実を結ぶかは、けっしてコントロールできないんだから。
なまけ者の3分間瞑想法 P217 著:デイヴィッド・ハープ 訳:片山陽子 創元社
人事を尽くして天命を待つ、ということわざがあるように、
どのような結果が現実に起ころうと、
それまでの行動に対して向き合ってきた姿勢が大切なんですね。
どのような結果があろうと気にしない、
どんな現実であろうと受け入れるつもりだ、
という点を、僕はこれまでかなり意識していました。
その結果、行動というものに対してどうやらあまり気にしなくなっていたようです。
その背後に行動することへの苦手意識があったことも否めません。
もう少し行動することについて、いい塩梅で捉えることができるように、、
いやそれこそ行動で示すことですね。