自分の中の消費者的認識とその世界の延長の未来

credit: Graham Judson via FindCC

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日本アグロエコロジー会議の勉強会でのメモを、と思っていましたが

とりあえずこの勉強会に参加したことで気付いたことを先に書くことにします。

 

 

「自分がいかに都市生活者であり、消費者という存在であるかを痛感した」

それが昨日にはっきりと出てきた思いでした。

 

勉強会では農業などの生産業をしたことのない人たちに対して

「少しでも、わずかでもいいので生産してみる側になってみること」を

様々な方々が話されていました。

 

それを聞いて胸の内を振り返ったとき

もし自分が庭に何か小さな作物を植えて育てようとしても、

いったいどれだけ手をかけてやれるのか、

どれだけ愛情をかけられるのか、まったく自信がないことでした。

放置して腐らせてしまうイメージしかないのです。

 

それは何故かと考えていくと、

「腐ってもいいや、また新しい種を植えればいいし」

「別に売ってるやつ買っても同じじゃん」という意識、

“消費することでモノは手に入る” という意識があるためです。

 

まるでゲームのように、育てようとした種が腐っても、枯れても

リセットボタンを押して(新しい種を買ってきて)またイチからやり直せばいい、

だめなら市場にあるもので済ませればいい。

 

植物に対する向き合い方に愛情が入っていないのです。

これは植物だけに限らないで、身の周りのモノに対しても

「じゃぁ、次の買う」だけで済ますなら同様でしょう。

これは僕が消費者として、都市に生活しているために身につけた認識の狭隘さなのです。

こうした自分の中にある、

消費行動で問題を回避するクセこそが、問題なのだと気づきました。

 

こうした気づきによって、

自由主義による市場経済ばかりを推し進めようとしている人たちや

消費文化に無自覚で浸り続けている人たちの思いも分かったような気がします。

 

自然によって恩恵を受けているとは思っていないのです。

あくまでも利用すればいいという立場なのです。

自然で作物を育てることが問題になれば、

施設や地下でも、太陽光がなくても作物を作れるよう

研究開発すれば大丈夫だと考えるでしょう。

農薬が問題なら農薬が不必要な環境を無菌室で作ればよいと、

空気が汚れてもそれを綺麗にするフィルターを開発すればいいと、

地上が汚れ、人が住めなくなっても地上に都市をつくって住めればいい、

もしくは海上に都市をつくろう、エネルギーがそこで作ることができれば大丈夫だと。

地球が壊れそうになっても宇宙開発が進めば、コロニーを作ってそこで住めるようにしようと。

 

自然体系が壊れても、人間の技術で必要なものは代用できると思っているのです。

問題は科学技術が解決してくれたし、

これからも最先端のそれらが解決してくれると思っているのです。

それが彼らの「未来」なのです。

(これは人間に必要な資源が有限であるという認識を受け入れられず、

あくまでも無限であり続けることしか受け入れられない思考なのではないでしょうか)

 

昨日の記事で辻さんが勉強会の冒頭に「危機感が足りない」と話されていました。

市場原理で動く人たちには「危機感」などたぶん一切ないのです。

すべて代理代用で、消費で済ませられると思っているからです。

 

ここに生物多様性や地球環境、地球規模で世界を考えようとする思想が

他の人たちに今ひとつ届かない理由があるのかもしれません。

 

そう思うと世界の認識の二極化がますます進んでいるようです。

双方の断絶は恐ろしいほど深い亀裂に思えます。

絶望はしませんけどね。

 

 

※追記(2.15)

危機感を感じるということは、

こうした断絶が世界を覆っていることも含んでのことだと気づきました…