「きみは死すべき命などではない。」
ぼくの命は死にはしないぞ、って?
「実際、きみは死すべき命(モータル-mortal)などではない。具体的にどうやるかって?自分は魂(スピリット)ではない、なんていう引っこもった暗示は受け入れないこと。魂(スピリット)が本来の自分だと認める。きみはこれまでずっとそうだったし、これからもそうだ、死すべき命(モータル)というゲームを選んだとしても、魂(スピリット)であることに変わりはない。そんなふうに肯定的な見方に切り替えればいいんだ」(P128 ヒプノタイジング・マリア)
人間は死ぬもの、誰もが当たり前にそう思って過ごしています。(だけどとりあえずは今ではないし、すぐでもないという思いも含めて)なぜなら自分の周囲の人たちが死んでいるから。死んできたから。命あるものはやがて死を迎えると、そして私はその命あるもの、そのものなのだから、また私もやがて死を迎えるのだろう、と。
そこで思い出しました。
僕は死について、十数年前に書いた「空とほら穴」という文章のうちに、こう書き記したことがあったことを。
死そのものを明確に捉えることなどできないと。
死ぬときは意識が薄れると共にあらゆる感覚が消え去って、ふっと途切れてしまうのだとすると、死ぬこと自体は決して分からないものなのだろう。自分に死が訪れるとき、自分という存在や意識自体も死が持ち去ってしまうのだから、死ねばもうただの物、僕が死ねばそこにあるのは僕ではない。何故なら、僕という存在の自覚がないのだから。
可能なのはただ、死に直面する生きた自分の存在だけだと。だけどこれも結局は、自意識の覚醒だけの捉え方で、僕は自分の肉体の五感の総和と主体性しか問題にしていない。またそれでいいと思っている。
そして自意識だけを言い張ると、生きていると言える限り、自分は不死だとすら言えるようで、愉快である。
http://soratohoraana.seesaa.net/article/140789363.html
この時は結論として、自分というものは、頭で感じ捉えることができるかどうかということ、つまり自意識の存在が生きていることと同義でありました。しかし思えば眠りというものも、眠り自体は本人が捉えることの出来ないものだとも言えると思います。意識が覚醒している間のみが生きていることというのは、すこし話が狭いんじゃないか、という気も改めて今はします。「死んだ時に自分が死んだとは気付けない」とも結局は言えないとも思います。
魂という存在を思えることも以前から多いですし、「転生する魂」という話は人生を逃げの方向に惑わす、という考え方もあるかもしれないと思いますが、生きていることの深みというものを年を重ねるにつれて感じてきたのでしょうか、わりかし当たり前なように思えるようになっています。またその半面、「一度きりの人生、悔いのないように」という言葉には、刃を突きつけられて差し迫っているような印象を受けてしまい、うんざりだったりもします。
だけどそこで「刃を突きつけられて差し迫っているよう」な感じを受けることそのものが、僕が「転生する魂」という生命観を利用して現実を逃げていることの証なのかもしれません。
「転生だろうと一度きりだろうと、どちらでもいい。今生きていることが問題だ。だからやりたいようにやれることをやっていく。」と言えるのは、かっこいいと思ったりしますが、はたして。