戦争について考えるゲーム

HotWired Japanで“「平和を学ぶツール」としてのゲームの可能性”という記事の中に紹介されていたゲーム『September 12th』をやってみた。

このゲーム、newsgaming.comというサイトが発信しているもので、オンラインゲームなのでMacromedia Shockwave Playerのプラグインさえあればひとまずやれる。

内容は単純にターゲットを絞りミサイルを撃つ、というもの。

しかしこれがなぜ戦争について考えるゲームと思ったのか。

舞台は現在のイラク情勢やアフガンを思い起こすもので、「敵」と定められたキャラクターは武装テロ組織のような姿。その「敵」だけを打つものならアメリカ軍国のプロパガンダにもならない程度の低いゲームでしかないが、このゲームでは、一般人としての普通の人々が周囲に大勢いるなかで「敵」なるものを撃たなくてはならない。これが難しい。というかほとんど不可能だ。何故かというと自分の武器は精度の高い暗殺用のライフルなどではなく、軍用のでかいミサイルだけ。撃てば周囲にいる一般人を同時に殺さざるを得ない。しかしこのゲームの深いところはその犠牲となった一般人の周囲に他の人々が集まり悲しむ声が流れ、その人たちが新たな「敵」となることだ。このような現実の縮図の一端を本質に取り入れたのがこの『September 12th』というゲームの独自性だ。

プレイしてみてさっさくその終わりなき悪循環を目の当たりにして止めたくなる。それは「敵」がこちらを見つけることもできず、撃つこともない、一方的な虐殺行為だからだ。もちろん撃つ撃たないはプレイヤーの自由。しかし続けていくとますます画面上にはテロリストなる「敵」が増えだす。しかもそれは全てプレイヤーが攻撃したゆえに誕生したテロリストなる「敵」なのだ。これは怖い。

もしゲーム上で「クリア」なるものを目指さなくてはならない場合は、画面上全ての人々を「敵」に化し、その上で全ての「敵」を倒さなくてはならないと思うと、それで達成した「クリア」とは何なのか、現実の戦争と照らし合わせていくうちに恐ろしくなった。

少なくともこの『September 12th』というゲームは、現代の戦争が孕む一端を、ゲーム体験を通じて考えさせようとする意欲的な新しいテーマを持ったものだと感じた。

極端な例を単純化したゲームだが、その構造は決して偽りではないと思う。