この震災の中で、芸術ができることについて

この震災の中で、芸術ができることについて思うこと
先日、知り合いの作家さんが告知していたGallery APAでのチャリティーショーについて共感し、主催者の方に了解をいただいて参加させてもらうこととなった。ありがとうございます。
自分は確かにこのチャリティーにおいて、いくらかでもの売り上げを生み出し、それが被災地の方々の助けになれることを願っている。
しかし同時に、やけにすっきりしている自分に改めて気付く。
参加は、自分の中にあった「被災者への助けになにかできないか」という思いを具体的な方法として標していただいたために、自分のなかにあった焦りに気付いた。
アートが今現在の状況でできることはない、と自分は以前思った。しかしそれは、今のこうした現状では、アートがどのようなお題目をもってしても、作品が被災者の人々の心に届くものではないということだった。だがそういうものだけがアートではないはずだ。
芸術が資本主義経済社会の中に存在しているゆえに、チャリティーという手段で金銭をつくり、その金銭によって現地の被災者を救う資金とする、という形は分かりやすい。
チャリティーという手法において、ここでは芸術作品は、金銭を生み出す一つの手段としての価値を担う。
しかしアート、すなわち芸術とは、そもそもそうしたものなのだろうか?
これはだた現在の社会に適応しているアートの姿にすぎない。アートそのものではないはずだ。
アートは、芸術は、芸術として、それ自身として、常にどんなときでも世界と共にある。
しかしそれは「作品」ではなく、もっと目に見えないもの、具体的なものでもないかもしれない。そしてそれはすぐに成果がでるものでもないかもしれない。何ヶ月後か何年何十年後かもしれない。何も結果が出ないものかもしれない。
芸術は被災者への直接的な支援にはならず、描いたからといって、発表したからといって誰かが救われるわけでもなく、腹が満たされるわけでも寒さをしのげるわけでもない。
絵は、芸術は、支援物資ではないからだ。
だが、だからこそ、絵を描くものとして、ひたすらに制作に専念するべきではないだろうか?ひたすら描くべきではないだろうか?まるで現実から目をそらしていると言われるように。深く深く、静かに描くべきではないだろうか。鎮魂ともせず無心に。
芸術は、きっと世界の遠く深い深い奥底に、届くことができる唯一のものだ。
きっと芸術は個人の表現などでなく、個人を無視して、はるかに越えていくものだ。
このような出来事が、この世界に起こること、現実であるというそのものが、なんという奥深いものだろう。恐ろしく崇高なものだろうか。
震災で多くの命が失われたことは沈痛な出来事だが、世界はあらゆる場所で絶え間なくそれを行い続けている。人間は死ぬものだ。いつどのようにかが、誰にも分からないだけだ。
死は常に沈痛な出来事であっても、それそのものが世界に存在しつづけることは変わらない。
そうした世界に対して常に共にあり続けるのが芸術ではないだろうか。