贈与的状態としての考える行為
『建築の大転換』第三章 エネルギーと建築の大転換より、
物を買う行為について。
それは言語構造との親和性が高いことが伺えます。
等価交換…物を買う行為は等価交換であり、…すなわち数量化できます。つまり足し算ができます。足し算は線型空間というところで行われるものです。…線型空間は四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)で表現できますし、その中にある物と物との関係は論理的な関係で把握することができます。この論理的な関係とは、言葉の構造でもあります。言葉とパラレルな構造で物事を配置していく空間が線型空間です。(P186)
そして贈与について。
贈与(ギフト)…では、私とあなたの間に通路をつくり出すための交換が行われます。通路とは、私でありあなたであるという見分けがつかなくなる部分が生じることです。…誰かの話を信じる、というのも贈与の一つです。相手の話を聞いて「この人は真実に近いことを言っているだろう」と思い、その言葉を自分の中に受け入れた瞬間に、この状態が生まれます。…このときの状態は数量化できませんし、論理的でもありません。二者の間にできる空間は、分離できない、非合理的な空間です。(P186)
この贈与という交換の状態を読んで思い出すのがこちらの言葉です。
本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。
これは小説家・保坂和志氏の『小説、世界の奏でる音楽(新潮社)』まえがきにある、
小説における批判に関する言葉として、
昨年末頃の投稿に、引用したことがありました。
贈与という「私でありあなたであるという状態」の空間とは、
まさしく「自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、
新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと」
と同じことに思えます。
贈与はただ経済の交換行為ではなく、
このように考える行為についてすら言い得るような
根源的なコミュニケーションなのかもしれません。