“present”から考える今と贈与の関係(3)

「今」そして「贈りもの」という

一見まったく異なった2つの言葉を意味している言葉、”present”。

 

それぞれの意味を考えていきながら、

今と贈与の関係について考えています。

 

前回の投稿では、一方の意味である「今」とは、

【常に「今ここ」にいる存在であると、自分自身が気づくこと】でした。

 

ヴィパッサナー瞑想での経験や

アウグスティヌスの時間論、エックハルト・トールの言葉から見えてきたことは、

僕たちは、避けようのない「今」という時間において

自分が感じている感覚一つ一つに意識を向けること、

この「今」、自分がこの世界に在ることへ気付きそのもの、

そのような洞察が見えます。

 

そして前々回の投稿において「贈与(贈りもの)」とは、

【気づかない内にどこかから届いていた、贈与の存在に気づくこと】です。

 

受け取ること、もしくは「宛先」があることによって贈与は、贈与たりえます。

だけど「すでに手元に届いているはずの、誰かからの手紙(贈与)」を

自分が受取人であったことに、どうすれば気づくことができるのか、

という謎が残っていました。

 

今回はそれぞれの意味から改めて

この「今」と「贈与」の関係を考え、

”present”という言葉を振り返っていきたいと思います。

 

気づきによって明確になる

まず、「すでに手元に届いているはずの、誰かからの手紙(贈与)」に

どのようにすれば気づくことができるのか、という問いですが、

 

僕たちが、贈与の受取人であるという自覚は

「ここにあった」

という気づき=発見によって、贈与という在り方の輪郭が明確になります。

発見されることがなければ、(手元に届いている手紙に気づかなければ)

贈与もまた、在ることすら見えなくて、隠れてしまう。

 

この場合、いずれも手に届く距離にあるものを

気づくことができるかどうか、です。

つまり、それは近くにある存在です。

 

近くにあるものが、「あったんだ」という発見=気づきによって

贈与は贈与たりえます。

 

まさに贈与は近くに隠されており、

気づかせてくれることを待っている存在です。

 

ここで「今」という時間に振り返ります。

 

エックハルト・トールは、著書『ニュー・アース』でこのように述べていました。

人生で最も根源的で重要な関係は「いま」との、と言うのか、どのような出来事であれ「いま」という時がとった形との関係である。この「いま」との関係が機能不全なら、その機能不全はあらゆる関係、あらゆる状況に反映されるだろう。簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。

『ニュー・アース』著:エックハルト・トール P218

僕たちは、ともすれば過去を思い悩んだり、

未来を期待し、不安を抱いたりします。

ですが「今」との関係、「自分は今、ここに在る」という意識は、

まさにそのように気づくことによって、「今」を受け入れることができます。

逆に言えば、

今というものは、気づくことができないと、

ずっと過去や未来に意識が向いてしまって

「今」にいることができません。

 

これって、近くに隠されており、気づかせてくれることを待っている存在である贈与と

とても似ているように感じないでしょうか?

 

近くにあるもの

“present”から考える今と贈与の関係(1)にも書いたとおり、

この”present”という言葉の語源には、

「近くにいる」という意味がありました。

『ジーニアス英和大辞典』の説明によると、現在を意味する present はラテン語の praeesse(近くにいる)という単語に由来するそうです。

一方、贈り物を意味する present は古フランス語の presenter(贈り物をする)に由来するとのこと。

これを見る限り、全く別の語源なのかな?と思いますが、『Wiktionary』の説明を見ると、古フランス語の presenter も、もともとはラテン語の praeesse に由来すると書いてあります。

https://whitebear0930.net/archives/5013

「近くにいる」と「近くにある」というニュアンスは異なりますが、

「今」と「贈与」、

どちらとも、手の届く距離にありながらも

気づくことができないと、それを成立させることができない

という距離の近さ、隔たりが共通しているようにみえますが、

その距離は、気づきによって一気に埋まります。

つまり、気づきによって「今」は「今」となり、

「贈与」は「贈与」となる。

 

贈与に気づくことと今

「すでに手元に届いているはずの、誰かからの手紙(贈与)」に

どのようにすれば気づくことができるのか、という

贈与で生じた問いに対して、僕は

 

「今に気づくこと」

 

と言いたい気持ちが生まれています。

 

しかし、その「今」は、

「贈与」という誰かからの手紙と同じ意味なのでしょうか?

 

例えば、「今」は自分の感覚という、自分中心の在り方に思える言葉ですが、

一方「贈与」で語られているものは、他者、

自分以外の誰かからの贈りものという違いがあります。

 

ですが、この両者は表裏一体のように

同じものを指しているように、感じている自分がいます。

 

このあたりをもう少しはっきりと書けるかどうか、

そこがこのお話の大切な要点に思えます。

 

個人的な見解では、「同じものを指し示している」と言えるけど

それをどう言葉で順序立てて説明ができるか、

腑に落とすことができるか。

結論ありきの強引な意味付けにならないよう、

ゆっくりと、次回に続きます。