自分を受け入れるということを

今、わりと自分を受け入れるということをテーマに

日々取り組んでいます。

ここで僕が考える「自分」とは、

日頃生きているとどんなものにでも色々と反応する主体や意識であり、

それをすべて受け止める、受け入れる、ということです。

「こんなことを考えているようじゃだめだ」

「こうすべきだったのにこんなことをしてしまった」

「こうしていたらこうなっていたかもしれないのにそうしなかった」

などといった自己批判や反省、後悔はできるだけしません。

というか、そのような意識が出てきた時は静かにその意識を観察するようにして、

その意識と一体化しないようにしています。

そして問います。

「そう思っているお前は誰か?」と。

たいがい、そうした意識は自分をこう見せたい、こう思われたい、

といった見せかけの良さを求め

一時的で表面的な満足を得ようとする自分であるか、

未来に不安を抱く恐れにとりつかれた自分であることが分かります。

 

自分を受け入れるということはどういうことかというと、

こちらの引用が分かりやすいと思います。

自己受容の定義はきわめて明確だ。それはいまの自分―こうだったらいいとか、こうなりたいと思う自分じゃなくて、いまあるままの自分―を愛し、受け入れることだ。どこかがいまみたいじゃなければいいと思っているなら、それは自己受容していないってこと。自己受容したければ、「自己受容してないなんてだめじゃないか」なんて自分を叱ることさえできない。

自己受容していないというのは、ある意味で、判断や評価の一種である「自己批判」なんだね。それに皮肉なことに、自分を判断して結果が「よし」と出たときでさえ、それもやっぱり自分への判断だ。ほんとうの自己受容とは、いっさいの判断や評価なしに自分を愛し、思いやることだ。(P251)

『なまけ者の3分間瞑想法』著:デイヴィッド・ハープ 訳:片山陽子 創元社

 

そして自分を受け入れることは、

自分を好きになる(この言葉の使い方の難しさを思いますが、あえてそのまま正直に書きます)ことともつながり、

気負いのない、自然な精神状態を自分の生活の中心に据えることを意味します。

本当の意味で、自分のことが好きな人は、自分がなくなっています。
究極的に自分を心底肯定し、愛している人は、判断することも、批評することも、執着することもなくなります。エゴを完全に手放して、「ただ在る」という存在になり、その存在じたいが大いなる自然とつながっているため、不安や恐怖から完全に解放されています。(P187)

自分を好きになることは、誰にとっても、大変ここちのよいものです。
自分のことを好きだと思う気持ちは、「自分が自分自身であることがここちよい」という感覚に近いものです。(P189)

『わたしの中の自然に目覚めて生きるのです―あたらしい暮らしのちいさな魔法』著:服部みれい 筑摩書房

 

こうしたことを続けていくことによって、

いまではむやみに反省したり残念がったりすることはほとんどなくなりましたが、

このような態度を一貫して生きるというにはまだまだ難しく、

(それを実現するには生活・仕事によっても大きく左右されると思いますので)

僕としてはまだ場合によって、

「ほんとうにそれでいいのか?」等と

多少の自己批判が必要な場面も許容しつつ、

なるべく良いバランスを心がけていたいと思います。