余白
おそらく今日で最終日だろうか。横浜美術館にて李禹煥(リ・ウファン)展を見に行ったのは先週のこと。
「余白の芸術」というタイトルが惹かれる。
余白という想像を掻き立てる言葉、見えないもの、なにもないところ、それをどのように展開しているのだろう、などなど思う。
もっとも見応えのあったのは、応照シリーズ。
作品の第一印象は「沈黙」。
何かを作品の方から訴えかけようとか、押し出そうとか、振り向かせようとか、そういう意図がまったくない。佇まいがまったく沈黙している。
だけど、それは作品に力がないとかそういうことになるかというと、とんでもない。
存在感は強烈だ。何ものにも動じないぐらいの作品の中に自立した、原理をもっているかのよう。そうした佇まいの姿に接すると、普段の主張を張り上げようとする自分の不甲斐なさを笑ったり。
そして会場を歩いていると作品の雰囲気がどこかえらい昔の、数百、千年前ぐらいほど古い日本がを眺めているような、時間によって浄化されたものを見ているような、そんな感じを抱いた。
やがてこの作品の中に時として孤独感を覚えたりする。それは作品の空白が生み出す一つの現れかもしれないが、スーっと引いて消えてしまうような、今思い出せばそんな感じもあったかもしれない。
その他にあった石と鉄を使った彫刻(インスタレーション)も見応えあった。
それぞれの相関関係からいろいろなバランスが見て取れる。
見えないものをどうあらしめるか、これはあらゆるものを創るひとたちの基本となるテーマだろう。この展覧会ではそうした表現と美しさというシンプルなありかた、両方の基底になっている「存在の原理」を実感できた感じだ。