6.20 万華鏡の視覚 The Kaleidoscopic eye

今月末からスペインへ行くので、帰ってきたらもう終わってるわー、と思ったので見に行った。
この展覧会、チラシには「彼らが提示する世界に対峙する時、私たちが鳴らされてきた感覚は試され、普遍的だと信じてきた「常識」は覆されます。」とか「万華鏡が多様で魅惑的な視覚を映し出すように、決して一つではない視点があることに気づくとき、世界の見え方が変わってくることでしょう。」というように描かれているように、どうやらこの企画は現代アートと距離のある人たちへ、現代アートの魅力を端的に伝えるための、いわば裾野を広げるための活動なんだろうなという気がするが、鑑賞後の印象として「視覚」をテーマにあげながらも「?」のつくような作品も多くあったので、題名と作品群がアンバランスと思えた。
確かにオラファー・エリアソンとか、ジム・ランビーのような視覚的な要素の強い作品はどこの展覧会に出ても、ある程度の理解や感動を鑑賞する人たちに伝えられるんだろうけど。
この展示で一番好きだった、ハンス・シャブスの2005年ヴェネチアビエンナーレのオーストリア館の設計にまつわるスケッチとか模型とか、写真とか地図なんかの展示は、その一つ一つのビジュアルや地図やスケッチが、完成されたパビリオンの建物のためのトリガーとなっていることにとてもワクワク感を覚えたけど、「視覚」という言葉を使うほど「視覚」的には思えない。
展覧会の最後に上映されているリテュ・サリンの「人間の存在に関する問答」というチベット僧たちが形而上学的な討論を記録した映像作品もそう。これはこれでとっても面白かったけどなー。問いを発する側と回答する側とにそれぞれ分かれて、チベット仏教に関する哲学的話題を討論するんだけど、内容よりも質問者がある話題や考えを質問する相手に質問する時、手を打ち鳴らして「さぁどうだ?!」「何と答える?!」といわんばかりのポーズで迫るそのポーズが面白かったり。
視覚ということだけでみれば、以前ICCでみた「ライト・インサイト」の方がより「視覚」的にインパクトがあったけど、作品一つ一つの奥行きや存在感は十分に堪能できた。
ジョン・M・アームレーダーの部屋は、「あ、ICCでも見た」と思ったけど、あとでICCのライト・インサイトで見たのはミシャ・クバルという人の作品だった。。個人的には文字が反射して映し出されるミシャ・クバルの作品よりも、このジョン・M・アームレーダーの方が好きだったけど。
他の展示作品に関して言えば、ジム・ランビーとイエッペ・ハインの「映す物体」のコラボはそれがコラボと分からないぐらいお互いの関係が自然だった。それもきっとイエッペ・ハインの作品が自らの作品を主張する以上に、周囲と能動的に関わることによる作品を手掛ける作家だからだろうか。(SCAIの個展見てないけど…)
またこの企画展を見る前にもよく目にしていた、ロス・カルピンテロスの「凍結した惨事の習作」という、ブロック壕が爆発された瞬間をそのまま捉えて展示したような作品は、写真で見るのと実際その場で目にするのとでは全くの別物。写真では「そういうものなんだ」ぐらいでしかないが、実際この瞬間をそのまま形にした作品の中にいると、まるで時間の感覚が失われて、瞬間という永遠の時間の中に紛れ込んだ-不安定だけど心地いいような―気分になった。
きっとこの展覧会で言われている視覚とは、上記の説明にもあるように、解釈を生みだす視線のような感じだろうか。でも結局この企画展の名前が与えるイメージがどうにも不自由だ。そのため企画展全体がどことなくぼやけた感じで、このコレクションを蔵するティッセン・ボルネミッサ現代美術館の紹介にしたくなかったんだろうけど、逆にそれだけになってしまったような中途半端感が残る…。初めに視覚を通じて体験するアートを、「視覚」という言葉でテーマとするのは、NGワードのような気もしてきた。
むしろこの美術館がどのような考えに基づいてコレクションを行っているのかとか―美術館の紹介には、「今日の美術を支援することを目的とし、斬新で創造性豊かな現代美術作品を積極的にコミッションし」とあるように、そうした面をより掘り下げるような言葉のほうがより作品全体を通じて楽しめるような気がする。
企画展の題名って難しいなーと思いました。