今アーティストが望まれる思考タイプについて

世界ではアートは株や投資といった資本経済社会内での一つとして明確なポジションを持っているという。海外ではアートは飾る目的ではなく、投資目的であると。
株や投資に関しては、常に未来を見据えて現在の状況を掴む考えが基本だと思う。つまり現在というこの「今」は「未来」を起点とした対象である。
海外のアーティストもこのようなアートの状況下では、それにならい、「未来」を起点として「今」この現在を捉え、アクションをおこしてゆく。
今現在僕が参加さしてもらっているトリプルエーというアートグループも、世界をメイン舞台にしている以上そうした思考方向性を強くアーティストたちに求めている。


僕個人でいえば、極端な理想像を頭上に掲げて、現実のこの日常が常に不満な状況であった過去がある。それは方法論と目標設定の曖昧さ、手段の模索を怠っていたなどいろいろ原因はあるが、その突き当たりで、今現在の生きているという自分自身の姿、つまり日常に立脚していなければ何も動けないということに気づいた。そこから現実を起点とした生活を過ごしてきた。「今」を見据えることは僕自身の価値観の大きな部分を占めている。
これらそれぞれの立脚点から見る世界像、そして自分の現実でのアクションというものが大きく違ってくる。
「未来」から「今」を捉える視点、というのは決して簡単な真似事ではできるものではない。ただ単に未来のビジョンがしっかりとしていればいい、でもだめで、この「未来」から「今」に至る逆算をたどることが重要になる。
一方今の僕は「未来」についてはあまり考慮していない。
むしろ「今」をどう捉えるのか、それはなんなのか、どのような意味を持つのか、持たせるのか、そこからどう展開していけばいいのか等、常に「今」生きている状況内から材料を見いだしている。
これは現在を楽しんでのんびり過ごしていくにはいいが、未来に不安が発生すると太刀打ちするのは難しかったりする。
だが、「未来」から「今」を捉えた場合の現実が、「未来」のための道具としての「今」になるようにも思え、胸をすくようなわくわく感もない。
これはただ単に自分の中に「未来」というビジョンが稀薄なためともいえる。
「今」を起点にする場合、「未来」は「今」の延長だからだ。そのためそこから見える距離も狭い範囲になる。それはそれで狭隘になりやすいし、妥協や安逸にもついもたれかかってしまうだろう。
この「未来」から「今」を見てゆく思考方向に興味をもった。それがいったい何なのか、はっきりするまではいたずらにそのまねをしたくはない。