不快なものは治癒を誘っている、かも
日頃からよく読んでいるブログのひとつ、
In Deep の今日の記事の中に印象的な言葉がありました。
結局、今の医療と、何より、私たちの病気に対しての考え方の問題として、
不快な症状は悪いものなので無理矢理止める
という観念のまま進んできたことにあるような気がします。
「In Deep: 風邪の因果で思い出した「高熱と成長」のこと」http://oka-jp.seesaa.net/article/417734467.html より
こちらの方がブログで書いているように、
これは私たちの病気に対する
無意識ともいえるぐらい深く根ざした思い込みなのかもしれませんが、
僕はこの「不快な症状」というものは、
もしかしたら精神的なものも含まれるのかも、と思いました。
例えば、自分に対して否定的な気持ちになったり、
ムシャクシャしたり、投げやりになったり、
どうしようもなく悲しくなったり、
明確な対象がないものに恐怖したり、不安になったり等々。
野口整体で語られる、風邪がその人の体の調整機能だという話は
まだ身体と症状という具体的なものであるだけに理解して受け入れていますが、
上のような精神的、気持ちの部類に入るようなものには
当てはまらないかも知れません。
ですが人間の身体、肉体という非常に緻密で精密なものと同居する
この「精神」そして「心」というものも
その緻密で精密な身体が自然治癒力を発揮するように、
「自然な状態」であることの心地よさを
どこかで生まれつき知っているはずだと思います。
つまり病気が、肉体の自然な状態へと戻ろうとしているサインであるように、
精神や心にも同じような治癒力が働いているんじゃないかと。
ですがおそらくこの心の治癒にかかる期間は
きっと身体よりもさらに長いものでしょうから
僕たちは常にその治癒過程にあるとも言えるかもしれず、
それが治癒であることすら気づきにくいものにも思えます。
そこで大切なのは、自然治癒力を持つ身体への信頼と同じように
心に対しても信頼していることかと考えます。
自分の心を信頼する、というのは、言葉としておかしいかもしれませんが、
自分という生命、この存在を、一歩退いて捉え直すと分かりやすいかもしれません。
色々な悩みや不安や恐怖がおこるかもしれないが、
そこに留まらずに支配されない、という心持ちで自分を信頼する、という理解でいいと思います。
それは瞑想の際に起こる、
色々な思考に拘泥しないというものと同じですね。
それは「なまけ者の3分間瞑想法」にある
思考をやり過ごす
ということだったり、
瞑想中に次々と押し寄せる思考のことを電車と捉えて、
その電車には乗車しない(感情移入しない)で過ぎ去らせる
という話(どこかで聞いた記憶が…)だったりします。
こうした態度は「今を生きる」ことにフォーカスをあてる生き方につながります。
いや、むしろ「今を生きる」ということそのものが
自分の心を信頼するということなのかもしれません。
とすれば、どのような精神的な落ち込みや不安などの揺れがあっても、
「今を生きる」という姿勢でいることが
なによりの一番の治療なのかもしれません。