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ぶちのめす対象は絶えない

今日Amazonインスタントビデオで

ポール バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」(1998)

という映画を、とあるブログで引用されていた影響から見てしまったのですが、

これはエイリアンとの対決という図式の世界観において

戦闘・戦争を賛美する社会が描かれ、

その中での人間ドラマを描いているものでした。

 

この映画は、監督曰く

ナチス・ドイツのプロパガンダ映画『意志の勝利』のパロディ映画(wiki

ということでもあるらしく、

全体主義的な映画ということの批判も公開当時あったそうですが、

ストーリそのものは見新しいものではないものの、

僕にはこうした人類以外との対決の構図によってでてくる

「戦闘本能」といいますか、

闘争心というもののはけ口のような表現は

いつまで続くのだろうか、と思ってしまいました。

 

といいますのも、

近頃のゲームについて触れる機械があった昨年に、

やはりといいますか、

ゾンビもの、というものがわりと大きくあるんですよね。

(それこそ有名なバイオハザードシリーズからデッドライジング3など)

 

ゾンビという存在は、

「人間に最も似ているが人間であらざるもの」であり、

敵として殺戮する、いわば「ぶちのめす」という暴力的手段が

非常に簡易に成立させやすい対象なのだろうと思います。

その行動を正当化してくれるんですね。

 

映画「スターシップ・トゥルーパーズ」では

昆虫エイリアンという設定が人間的形態からはほど遠いので

まだいくらか可愛らしい気もしましたが、

そうした「ぶちのめす」ための何かしらかの対象が必要とされる

時代背景や理由について思ってしまいます。

 

暴力が正当化され、思う存分暴れてみたい、

そうした世界にある開放感への憧れがあるのでしょうか。

衝動的な破壊欲というものは心理学で対象になるようですが、

「ぶっぱなす」「ぶちのめす」開放感が必要な状況って

極度なストレス状況か、精神的に未熟・衰弱している状況のような気もします。

 

しかしどの時代、どの国でもこうした行動は人間にとって絶えないものであり、

現実世界に表出せずに、どのようにコントロールするかというところでの

こうした娯楽の存在があると言えるかもしれないですが、

なんかいまいちピンときません・・・。

 

画像出典:http://image.eiga.k-img.com/images/movie/53610/original.jpg